状況がどうあろうとも、我々は、問題のほとんどは、仏教徒の間に起っている事を発見する。
今、我々は論争の当事者について思いをはせてみようと思う。
事実に基づいて、さらに精密で正確に言うならば「仏教は、永遠の自我というものを主張するのか否か」というこの問題は、ある種の大乗の宗派と上座部の宗派の間にもあり、ただ上座部の宗派の中にだけあるのではない。
タイの仏教は、小乗に属するが、また「上座部仏教」とも言い、通常は「仏教においては、『自我』は認めない」という立場を持している。しかし、我々の間であっても、何人かは、ある種の大乗の宗派が持する所の立場と同じ立場を主張して、「自我」はあるのだと認めているが、これは決して珍しい事ではない。
その原因の一つは、彼らは上座部仏教の教義を正確に理解している訳ではないということと、もう一つは、彼らは大乗仏教の中から、自分の都合のよいところだけ切り取って来て、かつ、これらの断片的な観念を秘密裏に喧伝しているのである。彼らがこれらを真理とみなすのは、これらの断片的な観念が、彼らの昔からの信仰と合致するからである。
ここからわかることは、この種の論争の当事者は、ある種の大乗仏教と上座部仏教徒だけである、ということである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>