Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-9

一部分の上座部仏教徒が、ある種の大乗仏教の観念を有してることは驚くに足りない。

大乗仏教内部にも、似たような事情があり、彼らの中にも、いろいろな異なった意見を持つ者は多く、かつ、(+そのため)多くの宗派に分裂している。

故に、ある種の人々の見解は、その他の宗派と雷同することがある。このことは、どのような宗教でも避けることのできないものである。

しかし、歴史的な事柄や各部派・宗派が主張する主要な教義の広範な研究を通して、我々は、それぞれの宗派の主張を知ることができる。

我々は、かつて、タイの上座部仏教を信仰する者の考え方を子細に検討してみたが、大乗仏教各派の観点を認める者は、極めて少ないことを発見した。

しかしながら、これらの(+大乗の観点を認める)人々は、これらの観点は、大乗仏教の特別に新しい考えであると盲目的にとらえており、大乗仏教は、非常に古くからこのような観点を宣揚していることを、知らないでいる。

最初の始まりの時、ある種の人々は、仏教は「自我」があると主張した~それは寂滅の涅槃または無為法である、と厳かに宣言したが、その後に、この観点は立脚点がないと見て取った彼らは、重要な点を避けて二次的なものを取り上げるような態度で、彼らはただそう呼びたかっただけだとか、推論で得た結果にすぎないと言い出した。

また、別の人々は、先に彼らの書物の中でそれは「自我」でると認めたにもかかわらず、後になって涅槃は「自我」でもなく、「無我」でもなく、何物でもない、と言い出した。

最後に、ある種の人々は、この問題から逃れるために、涅槃を「自我」だと解釈するのは、根器が劣る人を説得して、彼らに仏教をより学習させやすくするためだ、などという口実を考えた。

(+状況は)かくの如くではなるが、しかし、ある種の人々は、「仏教は『自我』(涅槃)はあると主張している」という意見を持ち続けている。このことは、彼らが《仏教》や、その他の刊行物に記載した文章に、明確にみてとることができる。(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>