パオ・セヤドーの「菩提資糧」を翻訳していたら<衆生自業智>という言葉が出てきました。
仏教の専門用語で、業力は己によって造られるもので、かつ、造られた業が善であるか悪であるかにかかわらず、自分自身がその責を負うものであって、他人に代わってもらうことはできないということがわかる智慧、という意味。
私は老境になって、ようやくこのことがわかるようになってきました。
人は業によって、十人十色、百人百色、千人千色、万人万色、六十億人六十億色、まさに万華鏡。
以前、タイのお寺で修行していた時、ロンポー(住職さん)に「〇〇さんはひどいです。私はああはなりたくない」と訴えたら「君は〇〇さんではないのだから、余計なことは言わない」と叱責されたことがあります。
〇〇さんには業(心の癖)があり、それを批判する私にもまた、業がある。業を背負った者同士という意味では、五十歩百歩。
業を背負って、同じ地球船に乗り合わせたのだから、お互いもう少し寛容でありたいのに・・・それができないのが、また私の業(堂々巡りですね~苦笑)。
業を背負った者同士、それを知らずに他人の欠点を厭い、業を増やし、諍いを増やし・・・仏陀や聖者、菩薩の大悲心は、このことを広く深く悟ったが故の、涙の心なのでしょうか。