Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー13

現今、外国語で書かれた仏教書や雑誌(小、大乗仏教ともに)が多く刊行されていて、各宗派ともそれぞれの観点に基づいて、言論の発表を行っているが、最も人をして論争に向かわせているのは、やはり「無我観」である。

大乗仏教は、これまで常に主導的な演者の立場を保ち、適当な時期に、適当に(+自説を)紹介したり、解説したりする以外に、彼らはまた一般大衆の「自我観」に迎合するような主張をすることもある。

故に、我々は、この種の研究者と思想家(仏教徒であったり、外国人であったりする)の間に、意見の相違があることについて、全くもって、驚く必要はないのである。

このような、考えることが好きな人たちは、この種の命題を、ただ自分の思考の楽しみを追及する時の食糧として、消費しているだけなのであるから!

宗教的な研究における四つの命題~

どのような宗教を研究するにしても、通常、四つの命題があると考えられている:

(一)教主の一生と教法。たとえば、仏陀の生涯と事績と彼の教法を研究する事。

(二)世俗的な教義。当該の宗教の信者は、すべての教義を知り尽くしてその上で、実践をしなければならない。これには、当該の宗教のすべての信者が、苦痛の中から解脱するまで実践しなくてはならない道徳的な規範(または戒律)を含む。

(三)勝義諦(奥深い教義)または哲学。たとえば、仏教アビダルマ(また「論」とも訳せる)、これはロジックに基づき形成された要義であり、推理の原則の下、詳細に分類したものであり、それらは思考するための理論的原則であり、実践とは無関係であり、修行者はこれらを知らなくても、なお苦痛から解脱することはできる。

(四)宗教的な神秘体験。実際、宗教は、誰かが創造したものではなく、自然における真理であり、すべての宗教における神秘体験は、その核心的な部分では皆、似たり寄ったりである。

たとえば、ある人が、最高レベルの善行まで到達した時、彼は永遠不変の状態を獲得することができるが、これは「涅槃」「上帝」「最高自我」「天国」と呼んでもよいし、他の何等の呼び方で呼んでも、問題はない。

宗教は皆、これをもって最終目標としており、究極常楽の境地を証悟することを望んでいるものである。

この点に関して、我々が知る必要があるのは、この世界またはどこの世界であろうとも、ただ一つの宗教ーー真理の宗教または自然的真理の宗教しかない、ということである。

我々がこの真理に基づいて正確に修行するならば、究極的でかつ恒常なる安楽を得ることができるのである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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訳者コメント:ブッダダーサ尊者の、アビダルマに関するご意見(三)。アビダルマ大好き人間の私、う~~ん、ちょっと賛成できかねます。アビダルマって、仏教学者が、頭で考えだした推論ではなくて、禅定に入った修行者の、自分の体験の記録ではないでしょうか?

私は、私の修行に、アビダルマが非常に役に立っています・・・勿論、広い世の中、アビダルマを使わなくても悟る人は悟る訳で、しかしだからといって、アビダルマを「あれは推論にすぎない」というのは言いすぎでしょう。(ブッダダーサ尊者は、議論好きな人々が、アビダルマを議論の武器として、哲学的思考、頭の体操に用いているのを見て、批判されたのかも知れません。アビダルマを実践に使わないで、相手を言い負かすための理論武装に使う人は、タイにも日本にもいることでしょう)。

ただ、タイの阿羅漢と言われたアチャン・チャーも「アビダルマは細かすぎる」「悟るときに、いちいち何個心を使ったとか数える暇はない」「悟るときは、あっという間に悟るもんだ」と言っていますので、アビダルマが微に入り細に入りすぎる・・・という面を持っているのも、否めませんが。

(四)の、文化人類学または宗教学において<自然宗教>と呼ばれるものと、仏陀が教主の仏教を同列に考えるのも、少し粗っぽすぎる感じがします。もちろん、真理とは人間が頭の中で空想したり妄想したりするのではなく、自然(自分自身を含む)を観察し、自然から学んで、人々にわかるようにロジックを再構築したものである、という意味ではブッダダーサ尊者の言い分は正しいですが、だからと言って、仏教を<自然宗教>というのは如何でしょうか?

リーディング、お告げ、こっくりさんやお稲荷信仰等の自然宗教と開祖の存在する仏教、その軽重の区別がつかなくなってしまうのは、如何かと思います。

ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>