Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」 (翻訳文)-21

身体と心霊(ママ以下同様。辞書には、心、精神、霊魂)もまた

「自我(訳者註)」ではない~

一体誰が、功徳、罪悪、善事、悪事などを

したがるのか、または禁止されていると

して実践しないか、または恐ろしく感じて、

実践しないのか?

この点に関して、もし我々が、「無我」

ついて、しっかりと見極めがついていないと、

それを理解するのは非常に難しい。

実際、身体と心霊は、上に述べた事柄の、

行為の実行者であり、後果(=後におこる

悪い結果)の受取人でもある。

これらの果報(=因果の報い)は、それら

とともに、来世まで附いて来るし、

すべての果報は、心身の中に保たれる。

しかし、身体と心霊は決して「自我」などで

はなく、それらは自然なもので、

それ自身の内部、自然及び、自分の為、

なども含む力の影響を受けて、

運行しているものである。

身体と心の両者が、協調し合い、協力し

合って歩調が整う時、かつ因縁が具足した時、

それらはそれら(=身体と心)の直観に

合致する利益を追求するのである。

身体と心は、共に「自我」ではない。

というのも、それらはただの虚妄・幻相で

あるから。もし我々が、心霊が

「自我」の観念に執着する事のない

ようにさせることができるならば、その時、

即刻、「自我」は決して存在せず、

存在するのは、自然が創作した、感知と

思考する事のできる傀儡、または傀儡に

似た個体であることがわかる。

しかし、この個体は、自然の傀儡を、

却って「自我」であると見做し、

そのことによって「我々」「彼ら」

「この人」「あの人」「損・得」「愛・

恨」などの概念を生じさせているのである。

これらの考え方は、すべて虚妄・幻である。

というのも、それらは皆、内心から生じる

もので、内心とは、先に述べたように、

それ自身が虚妄・幻であるからである。

通常、人々は「幕の前」に何があるか、

をよく知っているが、「幕の後ろ」が

どのようになっているかを、探求する

人はいない。

また、「幕の後ろ」の存在を想像

しようとする人も、いない。

故に、人々は、自然と、すべての存在

する物は、すべて知覚できるものでな

ければならないのだ、と思い込んでいる。

彼らは、心身の合一を「自我」と見做し、

かつ心霊が中心であると思い

(もっと詳しく言えば、心霊を霊魂と

見做している)、「自我」の外には

何もなく、または「自我」を超越して

いるものもない、と思っている。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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訳者註:本文中に使われている

「自我」も意訳を避け、直訳です。

「自我」(無我もまた然り)は重層

的な意味(エゴ、コントロール可能、

実体を持つ等々)持つ専門用語で、

その時その時で、訳を変えねばなり

ませんが、意訳すると却ってわから

なくなることも多く、基本的に、

直訳とします

ブッダダーサ尊者著「自我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>