この観点は、ある種の人々にとって、
願ったりかなったりである。というのも、
彼らは、(+自分自身では)何もしなくて
もよく、(+物事が)自然に発展していく
のを待てばいいだけだから!
これは一種の、自己を否定し、自己の能力を
否定する哲学である。
この観点と仏教とが異なるのは、仏法は、
我々に清浄、不清浄は、因と縁により、
もし、我々がなんらかの因と縁を造った
ならば、その因と縁によって、清浄で
あるか不清浄であるかは加速され、
ゆえにその結果として、因と縁を造る心・身
にも影響を与えることになり、
言いかえれば、我々自身に影響を与えるの
である、と言う。
出世間のレベルにおいては、仏法は世事は
すべて「無我」であるとは言うが、しかし、
仏教は、穢れと徳行の存在を否定しないし、
このような状況を作り出す因と縁も
否定しない。
末迦利瞿舎離の観点は、現代科学の進化論
と合致する。たとえば、すべての有機物は
自然に進化するし、かつ、順序に従って、
比較的高度な生物へと進化していく。
進化論とこの理論の違いは、進化の過程で、
我々は、因と縁またはエネルギーを
創造することができるし、それによって
その進化を阻害したり、緩めたり、
促進したり、または加速したりする
ことができることである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>