Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー32

この種の観点は、一切の事物を否定し、

かつ、今世であろうが、来世であろうが、

いかなる事物も真実であるものはなく、

この世界事自体も存在しない、ただ元素

が反復して結合し、分離しているだけだ

と宣揚する。

この種の学説は、その信者にとっては、

気持ちが軽くなるものである。

というのも、彼らは自分から苦労をかって

出ないですむし、いかなるコントロール

下にも、自己を束縛する必要がない。

事物は自然に発展し、どのようなことが

生じようとも、憂いたり、喜んだりする

必要がない。

この種の観点が、仏教と異なる点は、

仏教は、なお、事物の存在を受け入れている

ことである。人がいまだ執着と煩悩を

有している時、これらの事物は存在する。

(+故に)人は、己自身と他人に面倒を

齎さないために、己の行為を正さなければ

ならない。

心・身は、心・身が完全に消失するまで、

各種の造作の作者であり、受取人であり

続ける。

心身が完全に消失する時初めて、これら

の業と業報は、相関するその人物と共に

消失するのである。

上記の意味は、以下の通りである。

仏教は、通常の一般人、また伝統的に

当然と思われている事柄を否定しないし、

世の中の人々は、自分の考えを持っても

問題なく、かつ、自己の感じるところ、

知るところによって、何かをなすことも

問題ない。

これらは皆、凡俗の境地であり、凡俗を

超越した境地に到達したければ、それを

乗り越える必要があるのである。

阿耆多翅舎欽婆羅の観点は、「空無見」と

言われ、その意味は、この種の観点に

もとづけば、いかなる事物も存在しておらず、

すべての、我々が名前を付した事物は

存在していない、ということである。

この種の、すべての事物を否定する

「無我観」は、したいことを(+遠慮なく)

なそうとする人を、最も満足させる考えで

あり、もし、これが人をして怠惰にさせる

ことがないならば、己のしたい、

どのようなひどい事でも、できるようになる。

というのも、この種の観点は、人が死ねば

何も残らず、すべて終わりである、

と思っているからであり、故に、この種の

観点は、また「断滅見」(ucchedadiṭṭhi)、

または虚無主義ともいう。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>