wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-35

[散若耶毘羅提子ーーいかなる事物も、みな

定義することはできない]

散若耶毘羅提子(Sañjaya Velaṭṭhaputa)

の宣揚した学説は、下記の原則を有していた。

いかなる事物も定義されることはできない。

また、いかなる名前で呼ぶこともできない。

というのも、それはなんらの物ではない

からであって、それは以下の問答によって

証明することができる:

「人は死後、再び生まれるか?」

「否!」

「人は死後、再び生まれることはないのか?」

「否!」

「人は死後、時には、再び生まれ、時には、

再び生まれない、ということはあるのか?」

「否!」

「人は死後、再び生まれないし、また、

生まれないでもないのか?」

「否!」

「人は死後、時には、再び生まれないし、

時には、生まれないでもないのか?」

「否!」

これらの例は、いかなるものも定義される

ことができないこと示している。

この種の観点は、「不確定論」

(Vikkhepaladdhi)と呼ばれる。

この種の観点を持つ人は、この種の学説を

どのように定義していいのか、よく分から

ないかも知れない。

仏教の中のある種の人々または団体の中に、

これによく似た不確定論を擁する場合がある。

たとえば、彼らは、涅槃は「自我」でもよく、

また「無我」であってもよいという。

または、涅槃は「自我」でもないし、

「無我」でもなく、本質的になにものでも

ない、という。

もし我々が、この種の観点を、

苦痛から解脱するための有効的な哲学と

するならば、我々はそれらの意義を

理解しなければならないが、それはすなわち、

いかなるものも気にかけず、すべてのものは

不確定であり、(+ものごとを)何等の

事物として受け取ることをせず、

どの事物もかならず放棄しなければならず、

恐怖する必要もなければ、心配する必要も

ない(+ということになる)。

このようにして(+はじめて)、

人の心霊(ママ)は、一切の事物の中から

解脱することができる。

これは、聞いているだけなら、非常に

簡単なようだが(+実はそうではなく)、

それに反して、仏教は、既有の習慣・

習俗や各種の思想、理論のひな形・原型を

受け入れるものでる。

仏教の通常の見方によれば、上に述べた

学説は、すべて外道として認定される。

パーリ経典の注釈家は、彼らの観点には

重大な錯誤があると考えている。

パーリ経典の《沙門果経》

(Sāmaññaphala Sutta)(これは

仏教自身に属する経典である)の中では、

尼乾陀若提子について述べた部分がある。

彼の学説は「自我」があると主張している

部分を除いて、その他の教義においては、

仏教と大差はない。

しかし、注釈家によって、これもまた

間違った観点であると、分類されている

ものである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>