[散若耶毘羅提子ーーいかなる事物も、みな
定義することはできない]
散若耶毘羅提子(Sañjaya Velaṭṭhaputa)
の宣揚した学説は、下記の原則を有していた。
いかなる事物も定義されることはできない。
また、いかなる名前で呼ぶこともできない。
というのも、それはなんらの物ではない
からであって、それは以下の問答によって
証明することができる:
「人は死後、再び生まれるか?」
「否!」
「人は死後、再び生まれることはないのか?」
「否!」
「人は死後、時には、再び生まれ、時には、
再び生まれない、ということはあるのか?」
「否!」
「人は死後、再び生まれないし、また、
生まれないでもないのか?」
「否!」
「人は死後、時には、再び生まれないし、
時には、生まれないでもないのか?」
「否!」
これらの例は、いかなるものも定義される
ことができないこと示している。
この種の観点は、「不確定論」
(Vikkhepaladdhi)と呼ばれる。
この種の観点を持つ人は、この種の学説を
どのように定義していいのか、よく分から
ないかも知れない。
仏教の中のある種の人々または団体の中に、
これによく似た不確定論を擁する場合がある。
たとえば、彼らは、涅槃は「自我」でもよく、
また「無我」であってもよいという。
または、涅槃は「自我」でもないし、
「無我」でもなく、本質的になにものでも
ない、という。
もし我々が、この種の観点を、
苦痛から解脱するための有効的な哲学と
するならば、我々はそれらの意義を
理解しなければならないが、それはすなわち、
いかなるものも気にかけず、すべてのものは
不確定であり、(+ものごとを)何等の
事物として受け取ることをせず、
どの事物もかならず放棄しなければならず、
恐怖する必要もなければ、心配する必要も
ない(+ということになる)。
このようにして(+はじめて)、
人の心霊(ママ)は、一切の事物の中から
解脱することができる。
これは、聞いているだけなら、非常に
簡単なようだが(+実はそうではなく)、
それに反して、仏教は、既有の習慣・
習俗や各種の思想、理論のひな形・原型を
受け入れるものでる。
仏教の通常の見方によれば、上に述べた
学説は、すべて外道として認定される。
パーリ経典の注釈家は、彼らの観点には
重大な錯誤があると考えている。
パーリ経典の《沙門果経》
(Sāmaññaphala Sutta)(これは
仏教自身に属する経典である)の中では、
尼乾陀若提子について述べた部分がある。
彼の学説は「自我」があると主張している
部分を除いて、その他の教義においては、
仏教と大差はない。
しかし、注釈家によって、これもまた
間違った観点であると、分類されている
ものである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>