仏陀は、この種の理論を排斥した。
それを「霊魂(ママ、以下同様)」と呼ぼうが、
他の名称で呼ぼうが、それを覚知する
ならば、完全に、究極的に解脱すること
はできない。
というのも、少しでもモノに対して
感知があるならば、なんらかのモノを
覚知しようと、執着が生じる。
言い換えれば、事物の特徴を感知して、
かつ、当該の知識や事物に執着するならば、
真実、苦痛を取り除けたとしても、
それは完全なる、または究極なる解脱で
はなく、仏陀の目標は、この境地よりも
なお、高いものであった。
鬱多迦羅の観点に至っては、阿羅邏迦羅の
修行の境地より高いものの、しかし、
結果はなお、同じものである、というのも、
覚知者が登場するが故に。
この境地は、彼の言うところの、苦痛を
消し去る、その場所である。
両者の唯一異なる点は、後者の方が、
心霊の訓練に関しては、前者よりは比較的
精妙で深いことである。
その証悟された境地は、存在するとも言えず、
不存在であるともいえないものである。
しかし、この二種類の理論は、結果的
には同じものであり、「自我(ママ、以下同様)」が
己を知覚して、最高の浄化に到達した時、
自己自身を認識することができ、かつ、
この種の境地を通して、永恒的な安楽を
得る事ができる(+とするものである)。
総じて、この二人の苦行者の目標は、
前述したとおりの特徴を持つ「自我」に
あり、かつ、それを、すべての苦痛を
取り除くことのできる境地であると
することにある。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>