wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー40

[ヴェーダンタ哲学の観点ーー「自我(ママ、

以下同様)」は、久しく覆われていた塵俗状態

の中から解脱することができる]

ヴェーダンタ哲学の観点はおおむね

下記の通り:

≪一人の人間が、その知識が成長し、

さらなる高度な智慧を持つとき、心霊

(ママ、以下同様)は更に浄化され、かつ、すべての

世俗的塵事が心の中から消え去った時、

「自我」は出現する。

もっと簡単に言えば、「自我」は久しく

覆われていた塵俗の状態から解脱する事が

出来、この時「自我」はすでに自由を

獲得していて、故に、それは「解脱」と

呼ばれる。

すなわち、一切の苦痛から抜け出したこと

を意味する。

「自我」とは、アノ、遍在しないところは

ないというソレを指し、心霊が塵俗によって

遮蔽されると、みることができなくなる、

そういうモノである。

我々が、ひとたびそれを見ることが

できたならば、ソレは、いたるところに

あって、遍在しないところはない、

ということが分かる。

ソレはあらゆる処において、同じ形態で

存在しており、ソレが我々のもので

あろうとも、他人のであろうとも、

普通のであろうとも、偉大なもので

あろうとも、ソレは「梵」と呼ばれる。

ソレは、万事万物に浸透し、我々が

なんであろうとも、ソレはあなたであり、

すなわち「梵」である。

このことから、すべての「自我

は同じである(+ことが分かる)。

我々が独立した、異なる一人として

立っているのは、塵俗によって覆われて

いるためであって、塵俗の状態を除去

できたならば、すべての「自我」は

同一である(+ことが分かる)。

簡単な例として、空気を比喩にしてみると、

瓶の内側の空気も、外側の空気も、

実際は同じであるように、もし、我々が

瓶を打ち破ったならば、この道理は

ますます明白になる(+であろう)。

しかし、空気を、塵俗性を持つ瓶の中に

詰めたならば、この部分の空気は、

瓶に属するのだ、と考えられる。

我々に(+これに)似たような執着が

あるとき、瓶の内部の空気を、異なる個体

だと見做してしまう。

同様の道理が、小我と宇宙大我

(「最高の自我」と呼ばれるモノ)の間に

も成立する。≫

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>