Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー41

解脱(仏教の涅槃に相当)とは、小我が、封じ

込められた塵俗の中から解脱し、その解脱の

過程において、心霊(ママ、以下同様)もまた

「自我 (ママ、以下同様)」を見る、という

ことである。

大乗仏教の教派の何人かの著名な大師は、

ヴェーダンタ哲学の「自我」は、仏教

涅槃と同じであると言い、それらの観点は、

これらの教派の典籍の中で、見ることが

できる。

我々がこれらのこの種の説明を聞くとき、

これら二種類の、それらの差異は、

用いている名称が異なっているだけ

であって、(+本来は)同類のものである、

とみなすかもしれない。

これは、仏教の中でも、一種の説明の仕方

があって、それは、心霊が無明と、

無明によって造られた、すべての障碍から

解放されるとき、心霊は、苦痛の消失に

よって自由、清浄、平安と清涼を獲得

するが、この時の心霊は、苦痛を滅し

終えた境地ーー涅槃をはっきりと

了知することになる(+という言い方

をするのが一因である)。

我々はこれを「涅槃」と呼び、彼らは

これを「自我」と呼び、それぞれ異なる

ものの名称であるように思われるけれども、

しかし、両者共、苦痛が消失した状態、

または境地の説明に用いられていることは、

間違いない。

しかし、ここには一つ問題があり、

それはすでに出現しているか、または

随時に出現する可能性がある。

というのも、ヴェーダンタ哲学の観点は、

仏陀の以前から存在していたわけで、

それならば、一体どのような理由で、

仏陀はこの種の理論の信徒になることが

なかったのか、そして、その種の観念は、

なぜ、それ以上進展しなかったのか、

という問題である。

ある種のヴェーダンタ哲学の学者は、

論文を書いて、この問題に回答しているが、

彼らは、仏陀ヴェーダンタ哲学の観点を

解釈して、更にはっきりと分かり易く

説明しただけなのだ、という。

というのも、仏陀以前、この種の観点は、

過剰なほどに精妙に、奥深くなっていたため、

それを軽々と理解できる人はいなくなって

しまった。そのため、当時の人々は、

ヴェーダンタ哲学と仏教が、二種類の

異なった理論であると、誤解してしまった

のだ、と。

私は、頑固者だと指弾されようとも、

この二種類の理論は、同じではない、

と主張する。

以後の章で、私は更に一歩進んで説明するが、

この段階においては、読者の方々は、

それぞれの外道の観点を、しっかりと

記憶しておいて頂きたい。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>