[有我論]と[無我論]の比較~
簡単に言えば、すべての観点は、二種類に
分けることができるーー「自我(ママ、以下同様)」を
主張する「有我論」と、それを否定する
「無我論」である。
[有我論者は、無為法が真正なる「自我」で
あると主張する]~
有我論者の中で、ある種の人々は、ある種の
モノの「自我」の存在を否定して、これらの
モノは「無我」であると言っているが、
しかし、その他のモノには、「自我」がある、
と言う。
前述した二人の苦行者は、二人とも世俗の
「自我」及びすべての塵俗なる境地を否定
していたが、これらの世俗的な事物は、
「無我」であると考えていた。
しかし、解脱の覚知と、塵俗から解脱した
境地の者は「自我」であると見做した。
ヴェーダンタ哲学にも似たような説明がある。
それらの差異は、ヴェーダンタ哲学は、
「自我」自体は(+皆が言う所の)アノ
<知者>であるということではなく、
心霊(ママ、以下同様)が塵俗から解脱した後、智慧が
顕現した後に造られた境地、かつ、その種の境
地は、万事万物の中に遍在していて、それこそ
が「自我(訳者注)」なのである、と言う。
しかし、ヴェーダンタ哲学もまた前述した二人
の苦行者と同じく、塵俗の境地は「無我」で
あると言う。
また、別の人々、たとえば波拘陀迦旃延は、
生命(jĪva)は不朽であり、生命こそが
「自我」であると主張したが、彼らもまた、
その他一切の事物は「無我」であると、
主張していたのである。
尼乾陀若提子に至っては、真正の有我論者
である。我々は、彼の観点は、仏陀の時代
においては、ヴェーダンタ哲学の一種に
属することを知っている。
彼が強調した、現実に即したものの見方は、
現在のヴェーダンタ哲学とは異なっている。
現在のヴェーダンタ哲学の解釈は、比較的
緻密で、哲理とその特殊性を強調している。
概して、有我論者は、有為法に属する個体
(=個人)は、生・滅することはなく、また
因と縁によって組成されることもなく、
それは恒常的に自己を保つ(+と主張し)、
(+彼らは)これこそが真正の「自我」
である、という。
この派の観点は、確固として「自我」を
強調し、かつ、二度と苦痛のない境地の中
において、ソレを探し求める。
また、彼らは、生、老、病、死は苦痛である
と認めている。そうであるから、彼らの
「自我」は、少なくとも生・死の束縛を
受けないのだ、と言える;
阿羅邏迦羅は、覚知した境地(以前に説明
した)を、二度と再び生・死の束縛を受け
ない個体(=個人)だと見做している
のである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
訳者注:「真我」と訳した方がしっくりする
かもしれませんが、前後の整合性を鑑みて、
原文のままの「自我」とします。
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>