Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-46

仏教は「自我(ママ、以下同様)」があるとは

主張しない~

各種の学説の要旨を比較した後、我々は、

「自我」があると主張する人(有我論者)は、

すでに世俗を超越するほどの高い境地に

おいても、なお「自我(訳者注)」を有している

(+という)。

特に、ヴェーダンタ哲学で言う解脱とは、

「自我」が塵俗を離脱した境地のことであり、

かつ、苦痛から遠く離れた、究極の解脱の

ことだと考えられている。

「無我」を主張する人は、二種類に分ける

ことができる。

そのうちの一つには、虚無主義が含まれる。

(+彼らは)相対的に言っても、絶対的に

言っても、一切を完全に否定し、なんらの

事物も受け入れることがない(子細に考えて

みると、これらの人々は、「自我」にも注目

しないし、「無我」にも関心がない。

ただひたすら一切を否定しているだけである。

そして、この種の否定は、見たところ、

「自我」をも「無我」をも、ただただ排斥

したい、という気持ちに合致している

ものである)。

二番目は仏法で、それは「一切法は無我」で

あると主張するが、しかし、事物は二つの状態

ーー持続的に生滅変異していること、

およびその始まり~源頭は分からず、それが

止息することはないが、また恒常不変でもある

ーーを認めている。

この種の二種類の状態の事物は、たとえば、

心霊に関して、もし世俗の観点からみれば、

自我」の観念はあり得るが、これは、

すべての衆生がお互い通じ合うとき、

まったく自然に、「自我」でもってすべての

ものどもを認識するからである。

たとえば、人々は、自分と関係のあるどの

ようなものでも、「私の」だと言うように。

しかしながら、もしも、絶対的観点または

絶対的な真理から言えば、仏法は「自我」

を否定しており、ただ前に述べた二種類の

自然なる状態だけを認めるものである。

もし、「自我」が二者のうちの一つであるな

らば、生滅異変を超越した無為法であっても、

この種の言い方は、相対的な法について

述べているにすぎないか、または、相対的な

法と関係があり、それは事実ではなく、

または完全なる絶対的真実ではない。

仏陀が仏法を説明する時、できるだけ

「自我」という言葉を使うのを避けたが、

しかし、通俗的で平易な説法をする

ときは、彼は時には「自我」という語彙を

用いることもあった。

これは、彼の説法が、道徳に言及することが

あり、または、いまだ開悟しない人に

向かって、分かり易く説明するため

でもあった。

(+ )(= )訳者。(つづく)

訳者注:「自我」を「真我」と訳した方が

いい場合も散見しますが、台湾の翻訳

グループにならって、「自我」で統一します。

★誤字脱字を発見された方は、当コメント欄

にてご一報頂くか、または<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>