仏教は「自我(ママ、以下同様)」があるとは
主張しない~
各種の学説の要旨を比較した後、我々は、
「自我」があると主張する人(有我論者)は、
すでに世俗を超越するほどの高い境地に
おいても、なお「自我(訳者注)」を有している
(+という)。
特に、ヴェーダンタ哲学で言う解脱とは、
「自我」が塵俗を離脱した境地のことであり、
かつ、苦痛から遠く離れた、究極の解脱の
ことだと考えられている。
「無我」を主張する人は、二種類に分ける
ことができる。
そのうちの一つには、虚無主義が含まれる。
(+彼らは)相対的に言っても、絶対的に
言っても、一切を完全に否定し、なんらの
事物も受け入れることがない(子細に考えて
みると、これらの人々は、「自我」にも注目
しないし、「無我」にも関心がない。
ただひたすら一切を否定しているだけである。
そして、この種の否定は、見たところ、
「自我」をも「無我」をも、ただただ排斥
したい、という気持ちに合致している
ものである)。
二番目は仏法で、それは「一切法は無我」で
あると主張するが、しかし、事物は二つの状態
ーー持続的に生滅変異していること、
およびその始まり~源頭は分からず、それが
止息することはないが、また恒常不変でもある
ーーを認めている。
この種の二種類の状態の事物は、たとえば、
心霊に関して、もし世俗の観点からみれば、
「自我」の観念はあり得るが、これは、
すべての衆生がお互い通じ合うとき、
まったく自然に、「自我」でもってすべての
ものどもを認識するからである。
たとえば、人々は、自分と関係のあるどの
ようなものでも、「私の」だと言うように。
しかしながら、もしも、絶対的観点または
絶対的な真理から言えば、仏法は「自我」
を否定しており、ただ前に述べた二種類の
自然なる状態だけを認めるものである。
もし、「自我」が二者のうちの一つであるな
らば、生滅異変を超越した無為法であっても、
この種の言い方は、相対的な法について
述べているにすぎないか、または、相対的な
法と関係があり、それは事実ではなく、
または完全なる絶対的真実ではない。
仏陀が仏法を説明する時、できるだけ
「自我」という言葉を使うのを避けたが、
しかし、通俗的で平易な説法をする
ときは、彼は時には「自我」という語彙を
用いることもあった。
これは、彼の説法が、道徳に言及することが
あり、または、いまだ開悟しない人に
向かって、分かり易く説明するため
でもあった。
(+ )(= )訳者。(つづく)
訳者注:「自我」を「真我」と訳した方が
いい場合も散見しますが、台湾の翻訳
グループにならって、「自我」で統一します。
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>