外道の主張する三種類の「自我」
遊行者たちの学説の中には、三種類の
「自我」がある:
(一)一般的に理解されている、色身を
「自我」とみなす;
(二)心霊によって生じた霊体
(astral body);
(三)意識;
しかし、前に説明したように、仏陀は、
意識の生起と消滅は、禅定の力でコントロール
することができる事から鑑みて、意識は
「自我」とみなすことはできないことを
証明した。
人々は、「自我」とは、主体的な力を持たない
個体である事、または、自ら意識的または
無意識的になることができないものである
という事を受け入れられないため、
それは、それを表す名詞の定義と合致すること
がないでいる。
ゆえに、もし、布咤婆楼の言う所の、ああいう
種類の特性を持つ個体が存在していたとして
も、それを「自我」と呼ぶことは、できない。
言い換えれば、それは主体的に、覚知ある
もの、または覚知のないものとして、
立ち現われて個体をなすことができない。
というのも、どのように探しても、
それがそのような主体的な力を持っていて、
かつ、唯一無二の真正なる永恒者だと、
実証することができないのであるから、
「自我」というものも、
ないのは当然なのである。
意識は「自我」になることはできない。
というのも、それは、止まることなく、
異なる個体(=個人)として、
変化し続けているからである。
たとえ、それが「自我」とともに生起して、
「自我」とともに消滅するとしても、
それはなお、「自我」ではない。
それらは、相次いで連続して生・滅する
個体である。
このことは、後の、「縁起法」の章の中で
解説したいと考えている。
(+ )(= )訳者。(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>