wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-63 

このように、仏陀が人々に捨て去ってほしい

と願っているモノは、捨てさるべきその個体

=個人)の上に、真実存在しているもので、

このことは、年若い青年が、存在しない美しい

娘を好きになるのとは異なるし、また、梯子

を造ったものの、どこにあるかもわからない

家(+の壁を)登ろうとするのとも、異なる

事柄である。

仏陀の観点では、捨て去るべきは

「自我(ママ、以下同様)」があるという、その観念

のものであって、人々が執着しているのが

どんな「自我」であっても、必ず捨て去らね

ばならないものなのである。

しかしながら、あれら、「自我」はあると主張

する先生方から言えば、彼らが言う所の

「自我」は、理性の原則を通して確認する

ことのできないものである。

いうのも、それは、ただ人々が、間違った

念の中で、執着しているものであるから。

有るときは「自我」は粗い肉体の上にあり、

有るときは心的な霊体上にあり、有るときは

また、意識の上にある。

それは、人々がそれを思考する時刻と方式に

よって、及び彼らの出会う問題の深さによって

する。

故に、「自我」は、今日の女性の服装の

如くに、不断に変化しており、永遠に美しい

とみなすことはできない、ということなの

である。

更に詳しく述べるならば、仏陀が人々に、

必ず捨て去るように教え導いた「自我」とは、

ただ無明と錯誤の観念が作り出したものに

すぎないのである。

(三)捨て去るべき「自我」は、前述した

三種類のモノである

第一は、粗くて、平凡な肉体。

二は、霊体で、この種の霊体は、禅の修行

時に出現するし、自分で出現することもある。

それは非常に神妙なるモノで、それは我々に

注意深く聞いたり、見たりするようにするし、

進んでは、遠方の友人と交流や連絡ができる

ようになったりする。

第三は、意識または創造された無意識である

ーー我々が眠っている時、無自覚な時、

または死亡する時、人々は、この種のモノが

人間の肉体を出たり入ったりすると

考えている。

「自我」に執着するということは、この三種類

形式から出ることは決して、ない。

しかし、仏陀は、この三種類の「自我」は、

ともに捨て去るべきだ、と言う。

捨て去ったその時、初めて心霊は純潔になり、

智慧は円満になり、最終的に幸福を得るからで

ある。

しかし、このことから、ある種の人々は、

この種の幸福と純潔に執着して、これを

「自我」として、かつ、これは仏陀が必ず探

し求めるように教え導いた、真正なる「自我」

なのだと言い、この種の新しい「自我」に

着する(+ことが起こった)ーーこれは

インド哲学が、人々に「自我」を探し求める

よう教えるのと同じことである。

ある種の仏教徒は、このタイプの教えを

受け入れて、まさにその通りだと思いなし、

かつ、新しい「自我」とは、すなわち、

仏陀が我々に探すように教えた涅槃なのだ、

と言う。

簡単に言えば、彼らは涅槃とは、仏陀

人々に教え導いた、三種の「自我」を

捨て去った後に追い求める「自我」である。

この点に関しては、後に討論、検討する。

ここでは、我々は先にはっきりと覚えておく

必要がある。

仏陀は、一人の人が「自我」を探し求めるの

ならば、この三種の外において探す必要は、

ないと言った、ということである。

この意味は、愚かにも「自我」に執着する人

にとって、「自我」とは肉体、霊体と意識の

三種類の形式しかない、ということである。

(四)仏陀の話の中には、いくつか、人々を

困惑させるものがある。

たとえば、象使い吉達が懐疑したように、

「自我」の概念が、異なる人、時間によって、

うものになってしまうとしたら、「自我」

とはどうやって取り除くべきものなのだろうか?

この点に関して、仏陀は、ある人が、あるモノ

を「自我」として執着する時、彼は別のモノを

二番目の「自我」として執着することは

できない。たとえ、一生の間に、人が、多くの

モノを「自我」として執着したとしても、毎回

執着されるところの「自我」は、一切、同時に

出現するということはあり得ない、と言う。

人々は、確実に知らなければならない。

あなたが執着しているものがなんであろう

とも、必ずや捨てさる必要がある。

これはまさに、牛乳とバターは、異なる乳製品

ではあるが、すべて牝牛からきているもので、

しかし、処理の仕方が異なるために、それぞれ

に順序による変化を齎したのものである。

なにかの事柄に執着する時、我々はそのことに

専注し、そして、それを捨て去る。

すべての、執着される「自我」がなくなる

まで、言い換えれば、二度と再び「自我」に

執着しないようになるまで、または、心の中

に、「自我」と認定されるいかなるモノも

存在しなくなるまで、我々は、継続してこの

方法を実践しなければならない。

(+ )(= )訳者。(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>