修行の最終段階に来ると、微細な無明だけが
残る。
(+この段階で)「究極の自我」に執着する
と言っても、もし頑迷にソレに固執するので
なければ、間違った観点である、ともいえない。
というのも、ソレは多少偏って射てしまった
智慧の矢のようであり、または糸のような
煙の痕跡のような無明であるからである。
前述した順序で、粗い肉体、霊体及び意識の
三種類の「自我」を取り除く外に、この種の
無明は、必ずもう一度、ということは最後の
一回になる訳だが、取り除かれなければ
ならない。
実際は、どのような人も皆、この種の「自我」
の観念を持つとは限らず、ただあまりにも
「自我」に執着する人、または真正なる
「自我」とは何であるかを探求する宗派
(特にインド哲学)において、この種の
「自我」(+の問題が)が存在する。
しかし、「何が苦痛を止息した境地」で
あるのかを探求する人にとっては、この種の
残存的な「自我」は、存在しない。
そうであるが故に、修行者にも、改めてソレを
捨て去るべき、という必要性も、生じない。
中に「自我」の存在を見破り、かつ解脱を
「真正なる自我」とみなすこともなかった
ので、即刻、阿羅漢果を証悟することが
できた。
この種の状況について、仏陀は:「あなたが
古い重荷を降ろした後、二度と再び、別の
何物かに執着して、それを新しい重荷に
してはならない」と言っている。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>