Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー67

修行の最終段階に来ると、微細な無明だけが

残る。

(+この段階で)「究極の自我」に執着する

と言っても、もし頑迷にソレに固執するので

なければ、間違った観点である、ともいえない。

というのも、ソレは多少偏って射てしまった

智慧の矢のようであり、または糸のような

煙の痕跡のような無明であるからである。

前述した順序で、粗い肉体、霊体及び意識の

三種類の「自我」を取り除く外に、この種の

無明は、必ずもう一度、ということは最後の

一回になる訳だが、取り除かれなければ

ならない。

実際は、どのような人も皆、この種の「自我」

の観念を持つとは限らず、ただあまりにも

「自我」に執着する人、または真正なる

「自我」とは何であるかを探求する宗派

(特にインド哲学)において、この種の

「自我」(+の問題が)が存在する。

しかし、「何が苦痛を止息した境地」で

あるのを探求する人にとっては、この種の

残存的「自我」は、存在しない。

そうであるが故に、修行者にも、改めてソレを

捨て去るべき、という必要性も、生じない。

たとえば、仏陀に付き従った五比丘は、五蘊

中に「自我」の存在を見破り、かつ解脱を

「真正なる自我」とみなすこともなかった

ので、即刻、阿羅漢果を証悟することが

できた。

この種の状況について、仏陀は:「あなたが

古い重荷を降ろした後、二度と再び、別の

何物かに執着して、それを新しい重荷に

してはならない」と言っている。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>