仏法には残存する「自我」はない~
あなたは、仏教の文献の中に「外道修法最高者
の自我」を見つけることはできないだろう。
というのも、仏陀は、それについて語ったこと
がないから。しかし、ある時期に、ある種の愚か
な人々が、それを仏陀の教法だと誤解して
しまい、かつ、この種の学説を「自我」を偏愛
する人に伝授してしまった。
これらの人々は、簡単にこの種の観点を受け入
れた。というのも、一般の人々は、非常に容易
に自然に、「自我」があるという観点を認める
傾向があるからであるが故に。
このような傷害・損ないは、しかるべきして
発生する。
というのも、それらの人々は適切な修学を
していないし、宗教的な学術的訓練も受けて
いないからである。
彼らは、己の説は、己自ら体験した智慧で
あり、経典学者が記憶している知識ではない
と宣揚し、また、これらの学者が内観
法門(vipassanā)を修習したことが
あったとしても、彼らは学生に、学者を
信用してはならないと教える。
簡潔に言えば、この種の「自我観」は、仏教圏
内においても発生するもので、これはある種の
人士に十分な知識を欠いていて、仏法に対して
理解が徹底しておらず、また、(+己の自我観
を宣揚するのは)仏教のレベルを引き下げて、
自己の方便とするか、または自己の欲望に
合わせるかするためであり、自己の強烈な
「自我」の傾向に基づき、憶測で説法をする
のである。
彼らがこのような行動に出る原因は、これらの
説法によって、本能的に「自我」を充満させて
いる俗世の衆生に迎合するためであって、
これらの教師と信徒は、とどまることを知らぬ
げに、盲目的に、仏法を、彼らの「自我」の
レベルに引きずり落としている訳であって、
彼らは全員、厳重な「仏法に対する非明確者」
だと言える。
以上は、仏教圏内においても、異なる観点の
成員がいる、という説明である。
非仏教徒の中、《奥義書》を学ぶ教派の中で
は、彼らには彼ら自身の哲学があり、
かつ、早く仏陀の前からすでにこの種の
「究極的な自我」の観点を持っていたことは
確実である。
「究極的な自我」は彼らの教法の内の最も
重要な一部分であって、彼らの修学の方式は
「何が『真正なる自我』か」を、問うことで
ある。
これは、仏教徒が「何が苦痛を取り除ける
ことができるか」を探求するのとは、同じで
はない。
発展と変革を遂げた。たとえば、ヴェーダンタ
哲学は、シャンカーラチャーリヤ(=シャン
カラ)の時代にすでに改善され、新しい観点を
獲得した。がしかし、「自我」をその目標と
していることには、以前と変わりがない。
これは、彼らの哲学の根本がこのようなもので
あるからであり、彼らの探求精神もこのような
ものであり、故にこのようなレベルで満足して
いるのであり、既有のレベルを乗り越えること
ができないでいる。
このことから、世界には多くの異なる哲学が生
じることとなった。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>
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