Sayalay's Dhamma book

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ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)-69★

私はここで、上述の事柄を論談・研究する

目的は、決して、仏教哲学とその他の哲学の

内、どちらがより良いか、どちらがより

深いかを比較したいが為ではない、という

ことを、明言しておく。

というのも、それぞれの哲学には、それが

持つ特殊な面があり、かつ、それぞれが、

自己の哲学に満足しているのであるから。

私が、色々と引用する目的は、混乱を避ける

ために、また、他人の教義を自分の教義と

するような間違いを起こさないよう、(+仏教

哲学と)それらとの違いに、線引きをする為

である。

明確に言えば、私が前に述べたとおりに、

仏教の観点はインド教(=ヒンズー教

以下同様)とは同じでない。ゆえに、

我々仏教徒は、インド教の観念を仏教の教義

と間違ってはならない。

というのも、そういうことをすれば、双方に

傷害・損ないを齎すからである。

もっとはっきりと言えば、私は仏教の観点を

堅持するが、その観点は、決してある種の人々

が言うような、インド教または婆羅門教の観点

と同じ、ということはないのである。

ある種の人々は、(+仏教において)この種の

間違った学説は、もともと出現してはいけない

ものであること、長い時間存在してはいけない

ものである事を知っているが、実際は、存在

しているし、場合によっては、これらの学説を

信じる事さえある。

もし、各種の小さな学派も(+身内として)

数えてみたならば、それらは、正確な学説

より、更に多い。

こういうことから、ある一つの教派の哲学

が、我々のとは違っていても、決して不思議

などとということはない。というのも、それは

彼らの学説であるから。

しかし、仏教はある種の、いくつかの学説を超

越するために打ち立てられたものであり、

かつ、これらの学説を一つ一つ否定したもので

ある(+ことを忘れてはならない)。

たとえば、それは、六師外道、阿羅邏迦羅

とシャーンカラの学説、当時非常に仏教

酷似していた鬱多迦羅の学説を否定

している。

こういうことから、仏教哲学について

検討し、かつ、明確に理解したいのであれ

ば、我々は、これらの学説に言及して、

仏教比較し、お互いの異なる部分を

確認しなけれならないのである。

我々にとって、特に、仏法が、いかに強烈に

これらの観点を否定し、または反対するか、

仏教がそれらのイチイチを超越しているかを

見通す事、人々が、非常に明確に、仏教だけ

が、真正なる究極であり、(+仏教だけが)

苦痛から解脱すること(+を教える事)が

できる宗教なのだ、ということを見通すこと

が必要である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

訳者コメント:下線は訳者。仏教徒の中で、

真我説に立つ人や、アドヴァイダの人を

軽視し、侮蔑する人を時折見受ける事が

あるが、人がどのような思想哲学を持つかは、

その人の自由である。仏教が究極の教えだ

としても、他者と比較して己が上だと

思い、傲慢になるならば、それはすでに

「自我」であるから、仏法に反する。

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>