私はここで、上述の事柄を論談・研究する
目的は、決して、仏教哲学とその他の哲学の
内、どちらがより良いか、どちらがより
深いかを比較したいが為ではない、という
ことを、明言しておく。
というのも、それぞれの哲学には、それが
持つ特殊な面があり、かつ、それぞれが、
自己の哲学に満足しているのであるから。
私が、色々と引用する目的は、混乱を避ける
ために、また、他人の教義を自分の教義と
するような間違いを起こさないよう、(+仏教
哲学と)それらとの違いに、線引きをする為
である。
明確に言えば、私が前に述べたとおりに、
以下同様)とは同じでない。ゆえに、
と間違ってはならない。
というのも、そういうことをすれば、双方に
傷害・損ないを齎すからである。
もっとはっきりと言えば、私は仏教の観点を
堅持するが、その観点は、決してある種の人々
が言うような、インド教または婆羅門教の観点
と同じ、ということはないのである。
ある種の人々は、(+仏教において)この種の
間違った学説は、もともと出現してはいけない
ものであること、長い時間存在してはいけない
ものである事を知っているが、実際は、存在
しているし、場合によっては、これらの学説を
信じる事さえある。
もし、各種の小さな学派も(+身内として)
数えてみたならば、それらは、正確な学説
より、更に多い。
こういうことから、ある一つの教派の哲学
が、我々のとは違っていても、決して不思議
などとということはない。というのも、それは
彼らの学説であるから。
しかし、仏教はある種の、いくつかの学説を超
越するために打ち立てられたものであり、
かつ、これらの学説を一つ一つ否定したもので
ある(+ことを忘れてはならない)。
たとえば、それは、六師外道、阿羅邏迦羅
とシャーンカラの学説、当時非常に仏教
と酷似していた鬱多迦羅の学説を否定
している。
こういうことから、仏教哲学について
検討し、かつ、明確に理解したいのであれ
ば、我々は、これらの学説に言及して、
仏教と比較し、お互いの異なる部分を
確認しなければならないのである。
我々にとって、特に、仏法が、いかに強烈に
これらの観点を否定し、または反対するか、
仏教がそれらのイチイチを超越しているかを
見通す事、人々が、非常に明確に、仏教だけ
が、真正なる究極であり、(+仏教だけが)
苦痛から解脱すること(+を教える事)が
できる宗教なのだ、ということを見通すこと
が必要である。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
訳者コメント:下線は訳者。仏教徒の中で、
真我説に立つ人や、アドヴァイダの人を
軽視し、侮蔑する人を時折見受ける事が
あるが、人がどのような思想哲学を持つかは、
その人の自由である。仏教が究極の教えだ
としても、他者と比較して己が上だと
思い、傲慢になるならば、それはすでに
「自我」であるから、仏法に反する。
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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>