Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー75

この学派の観点をはっきりと理解するため

に、我々は、必ず以下の事に思いを馳せる

必要がある。

ここでいう所の「大我」は、「法」または

「法の定律」で、かつ、涅槃とは同じもので

あると考えられている。この「自我」または

「法の自我」は、それを受け入れる人に

対しては友好的であり、または比喩を使って

言うならば、「法我」は「法」の力に服従する

人には友好的であり、「法」を拒否・排斥する

人に対しては、この「自我」は、彼らの敵になる。

故に、人々がこの「自我」を拠り所とする時、

まずは、ソレに服従しなければならない。

この「自我」とは、「法」を指し、「法」

または定律は、「大我」の中に含まれる。

言い換えれば、彼らにとって、同じものまたは

同じものであるとみなされたものは、すべて

「大我」と呼ぶのである。

仏教は、この種の「自我」または「法我」を

自己の「自我」とみなすことはしない。

たとえそれが無為法であっても、それを

ただ「法」として、認めるだけである。

仏陀が「『自我』は『自我』の拠り所」と

言うとき、その中の二つの「自我」は、普通

一般の「自我」を意味し、どちらの「自我」も

苦を受けているため、自分で自分を

助けなければならないし、または、自己を

自己の拠り所としなければならないのである。

しかし、一人の人間が、自分自身を助ける

というのは、一体どのようにすればよいので

あろうか?

人は、仏法を修すること、特に仏陀の金口に

よって述べられ、伝わった仏法、たとえば、

「自我」を取り除くために、または執着を

取り除くために修習する「四念処」

(Satipaṭṭhāna)等(+の修習)を通して、

自己を助けることができる。

「自我」を取り除いた後、人は、何等の拠り所

も必要がなくなり、「法」だけが彼と共に存在

する;

有為法は、これまで通りに変化しつづけて

いるが、有為法はソレの始まりの時の一如たる

状況と変わらず、静けさを保持している。

この種の境地においては、一人の人間に

「自我」はなくなり、その時、仏法を自分の

財産にように見做して、仏法に執着する、

ということもないし;または、ソレを庇護所と

見做して、仏法の支援を頼むということも

ないし;涅槃に執着しないが故に、ソレを拠

り所にすることのできる「自我」だと見做

して、ソレへ助けを求めるということも

しない・・・無明によって誤解する場合を

除いては。

というのも、涅槃はただの「法」の一種に

すぎないのであるから。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>