wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー77

(二二)利己的(+な心)、自己中心的

(+な心)、偽善、欲望、憤怒と貪婪を取り

除き、利己的でない、平和な人になる。

この種の境地に到達した人は、永恒者になる

条件が整ったのだ、と言える。

(第十八章、第53詩節)

(二三)永恒者になり、かつ「大我」の中に

おいて喜悦を感じる人は、永遠に愁いがなく、

二度と何かを追い求めるということもなく、

彼は万物と一体化・合一する。そして、

「自我」に誠心誠意忠実である人

と見做される。(第十八章、第54詩節)

(二四)一人の人間が、忠誠をもって尽せば、

その結果「私とは誰か、私とは何か」を正確に

理解する(+ということが起こる)。

一人の人間が、そのように正確で誤りなく、

本質に立った「自我」を認識したならば、

その時即刻、最高の境地に到達することが

できる。(第十八章、第55詩節)

 

これらの詩節から、我々は、それらが如何に

仏教と酷似していて、かつ、同様の教理で満

たされていて、唯一異なるところは、それら

には「自我」(または「真正なる自我」とも

言う)、すなわち永遠の後ろ盾があることだ、

ということが見てとれる;

しかしながら、仏教は「自我」を完全に取り

除いて、ただ「法」ーーその上、この変化

する「法」は、自然に変化してしまう

ものでーーのみを残すべきであると

考えている。

上記の内容を検討する事は、主題と関係が

ないように見えるかもしれないが、しかし、

実際は、それは我々に、インド教

(=ヒンズー教、以下同様)と仏教とが、ど

れほど似通っているかを知らせてくれる

が故に、(+これを比較検討することは)

実は非常に重要なことなのである。

当然ながら、我々は、この相似ている二種類の

観点の間において、異なるのは「自我」に

ついてであり、インド教の目標は、「自我」の

追及にあり、彼らが「自我」を手に入れた

とき、それが解脱であり、それを幸福である

と見做し、智慧または心霊が「自我」を証悟

した時、それはすなわち、幸福なる境地なの

である、と彼らが言うのを、知っている必要

ある。

このことは、次に引用する最後の二首の詩節

の中に、はっきりと見て取ることができる。

(二五)一人の人間が、すでにすべての欲望を

捨て去り、かつ「自我」の影響を受けて満足

する時、彼は、安定した心を擁するのだ、

と言える。(第二章、第55詩節)

(二六)風に吹かれないような場所に置かれた

蝋燭の光が、揺れ動かないように、一人の、

すでに心性を調伏した行者は、その訓練された

心霊によって静かに座り、「自我」を目標に

した瑜珈(=ヨーガ、ヨガ)を楽しく修練する

時もまた、動揺することがない。

(第六章、第19詩節)

 

我々は、最後の一首の詩節から、彼らの瑜珈

または禅の修習の目的は、「自我」を証悟する

こと、また成功裏に「自我」を見つけることを

終点としていることが分かる。

そして、その後には、彼らは楽しげに、涅槃

とは「自我」のことであると認め、ソレが

すなわち、「真正の自我」であることを

発見すること、または「真正の自我」を

探し求めることに満足し、れをもって、

彼らが以前、間違って導かれ、執着していた

所の虚偽の「自我」と取り換える、という訳

である。

ある種の仏教徒は、涅槃は「真正の自我」

であると執着するが、これはインド教と

同じで、彼らは、何かのモノを涅槃と見做

したいと執着するのである;

実際は、「自我」の思いが(+少しでも)存在

すれば、真正なる涅槃は出現することはなく、

涅槃が本当に顕現した時、「自我」の感覚は、

その時即刻、消失するのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

(つづく)

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>