wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー82★

総論:仏法と各種の観点の比較

 我執があるとき、重荷、苦痛がある~

上帝(=神)に関する観点または教義を主張

する(+人々の)その目的は、彼らの信徒を屈

服・仕えさせ、かつ、それに対して疑問を

持たずに規則を守らせることにある。

ゆえに、これらの観点は威圧性のあるもので、

独立的な考えと行為を許さない。

一切の事柄は、完全に上帝に依存する。

この種の観点は、低いレベルの「自我」の教義

と見做され、大多数の、教育を受けていない

野蛮人、または限定的に、子供向け、または

幼稚な者に向けた教義である。

人々は成長した後、この種の束縛から抜け出

して、自己の「自我」を主張し、己の力で事を

なし、自分のために事をなして、上帝のために

何かをすることはなくなるし、子供のレベルに

合わせた上帝(+の観念)に依存するという

こともなくなる。

彼らは、業力または善悪の応報を信じ、彼ら

自身が嫌でさえなければ、何回も輪廻するかも

れない。彼らは、生命における制限を受け

ながら行う行為の後に(+因果の)応報を

受け取るが、上帝の専制ーー上帝が彼らの

唯一の今生を賜与し、生きている間の行為を

記録して、後日の審判に備えるーーを受ける

ことはない。

この種の個人的「自我」信仰を信じるのは、

上帝を信じるよりはレベルが上であり、比較的

独立性がある。この種の信仰を持つ人は、

次には、善業をなすか、または、己を極度に浄

化することを通して、至高の安楽と、永久不変

の「自我」を獲得することができる。

我々は、東方の哲学においても、西洋の哲学に

おいても、この種の意義における「自我」は

皆、同質であることが分かる。

しかし、第二レベルの「自我」ーー

人は己自身で「自我」を持っており、それは

上帝に属する「自我」ではないーーという事

ではあっても、それでもって、究極的な独立

を果たしたわけではない。

というのも、人は依然として、「自我」に

監禁されており、この牢獄は、自己中心的、

我の膨張、自己陶酔と自己憐憫に満ちて

いて、かつ、知らず知らずの内にうぬぼれ・

自己満足、自己愛(=ナルシシズム)と

自己崇拝(=俺様意識)の炎で己自身を焼

き尽くしているのである。

そうであるから、仏教の観点から言えば、

この種のレベルの「自我」が、苦痛の終点

である、とは認めない。

我々は、以下の比喩を見てみよう思う:

ある人が森の中に入り、木の上に木の実が

成っているのを見つけた。彼はこの新鮮な、

おいしそうな果物を見つけて大いに興奮し、

すぐにそれを摘み始め、彼のバッグに満杯に

なるまで詰めて、それを肩に担ぎ上げた。

最初、彼はとりたてて重いとは感じなかった

が、一時間ほど歩いた後、彼はだんだん愉快

なくなり、疲れてもきて、重さを感じるよう

になった。それで、彼は、比較的出来の

くない果物を捨て去り、良い物だけを残し、

最後には、最もよい果物だけを、取り分けた。

暫くして、彼は、たったこれだけの果物でも

やはり重いと感じる様になり、彼は一部分を

食べてしまい、一部分を捨てて、手元に何も残

らないようした。

それでも疲れを感じた彼は、気が重く疲れて

いたので、横になって休むことにした。

暫く経って、彼はある所に金塊の山がある事

発見し、その金塊を拾いに行った。彼は

金塊を肩に背負い、急いで家に帰ろうとした。

彼が背負った金塊の重さは、先ほどの果物より

さらに重かったものの、どこから彼の気力が

来るのかわからない(+が、彼は、それを

担いで歩くことはできた)。しかし、暫くし

て彼は、耐え難いほどの思い負担を感じて、

いくつかの金塊を捨てるか、沿道に隠すか

して、最後には、ただただ疲れ果てた彼に

でも、もてるだけの少しばかりの金塊だけ

残した。

しかし、暫くすると、彼はまた、金塊よりも

更に貴重な宝物を発見したので、彼はこの

宝物を拾いあげたが、その重さは、先ほどの

金塊よりもなお、重かった。

それを運ぶ彼の気力がどこから来るのか、

我々は知らないけれども(+彼はまたそれを

運んだのだが)、結局、彼はその宝物の内の

いくつかを捨てないわけにはいかなった。

というのも、彼は思いがけず宝物を手に

したために、興奮してあちらこちら走り

まわったので、ますます疲れてしまい、

彼は結局、一つまた一つと、宝物を投げ捨て、

全部を投げ捨てたとき、彼は、二度と再び

重荷を背負う事はないし、心臓も動悸が早く

成る事もないので、ようやく自分が愉快で

あることを感じた。

最後のダイヤモンドを捨てたとき、彼は

リラックスして呼吸し、気持ちは爽やかに

なった。

例え、このダイヤモンドが瑕疵のない、完璧な

ものであり、重量も軽く、持とうと思えば持て

なくもないものであったとしても

彼は、最後には、それを捨てた。

というのも、それは、身体的な負担にはなら

ないけれども、心霊を圧迫するから、

である。

実際は、一粒の完璧なダイヤモンドを携帯

するか、保存しても、彼にとって、何等の

困難はないし、特に緊張する事はないし、

このダイヤモンドを身に着けても、重量を

感じることもなかったけれども、彼が耐え

難かったのは、それが彼の心を「圧迫」する

事であった。

ゆえに、彼は最後の一粒のダイヤモンドさえ

も、捨ててしまったのである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

訳者コメント:何かを握りしめていると、

人生、碌なことはない(笑)。

私は台湾の寺院で見た「回頭是岸」

(振り返れば彼岸)という句が好きですね。

あなたはあなたが出て来た所、0ポイント

戻るだけでいい。仏法だって、握りしめ

たらアウトでしょ。

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ブッダダーサ尊者著「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>