Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

ブッダダーサ尊者著「無我」(翻訳文)ー83(最終回)

「自我」を手放せば、苦痛は止息する~

この物語(No82)と、「自我」を持つという

ことはよく似ていて、「自我」を利用して、

自分の好きな、どんなこともできる。

時間の長短に関係なく、永遠にそうあり続け

たければ、「自我」は、そうすることが

できる。

しかし、彼は最後には発見する。

「自我」の持ち時間が長ければ長いほど、

「自我」が彼に与える負担・重荷は益々

長く、重くなる。

彼は、いっそうの事、「自我」などいらぬ、

と言い、いかなる物であっても、彼は

それを担ぐのを止めた。

これこそが、彼が受け入れるべきもので、

「自我」の束縛に抗うことを通して、人は、

そのことによって、更に一歩進んで、「自我」

の中から解脱することができる。

そしてそれより以後、二度と再び重荷を担ぐ

ことのない幸福、安らぎと静けさを享受する

ことができるのである。

しかし、もし、重荷を担うのが好きで、

そのことを通して幸福になろうとする人が

いたならば、その人はもはや二度と進歩する

ことはなく、また、進歩する事の優越を理解

することもできないし、体験することも

できない。

彼はこの種の境地に粘着し、他人に向かって、

これこそが、究極の幸福であると宣揚する。

前に言った通りに、総じて、「自我」を擁する

境地は、ソレがいかに管理のしやすいもので

あっても、それどころか、意のままにすること

ができるとしても、しかしひとたび、「自我」

が(+その人の上に)ありさえすれば、

「自我」による重荷ーーその人はその人の

「自我」に満足しているのではあるがーー

がある、ということを示している。

個人の「自我」は、一種の実体と見做すことが

でき、一人の人間の心霊が、いまだこの実体を

超越していない時、執着しながら、または

激しながらこの実体と共にいて、彼が

そのようにするのが非常に嬉しいのだと

しても、そこには執着と重荷が、存在している。

しかし、もし、「自我」が何であるかを

二度と感知することのない個体(=個人)

であれば、そこにのこされたものは、

ただ純粋な「法」のみになる。

これが「無我」であり、仏教で宣揚する所

「苦痛を滅却する最終的な目的」でも

ある。

故に、「外道修法最高者の自我」がいかに

高尚であろとも、少しばかり残っている煙の

のようで、ソレは、非常に繊細な実体に

転化する。

この種の負担・重荷は、《布咤婆楼経》の中

言われている三種類の「自我」(+の負担・

重荷)ほど明確ではないけれども、しかし、

それは、誰かを騙して重荷を背負わせるより

はまし、というほどには、よくもない

のである。

我々は完全に「自我」(または「自我」への

認知)を手放し、ただ「法」だけを

残さなければならない。

有為法の部分は、その特性に合わせて不断に

運行しているが、有為法の部分は、その特性

によって、一切の事物と行為を超越している。

これこそが、苦痛の止息または「無我」

ある。

どのようにして「無我」の境地に到達するのか

という話は、これ以降に研究・発表する。

 

(1939年 タイ・チャイヤー県法施社図書

にて。ウェーサカ祭の日に)

(+ )(= )訳者。(これにて翻訳終了)

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ブッダダーサ尊者「無我」中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>