問答(一)
問1-1:禅師にお訊ねします。
無我と空は、レベルの上で何が異なるの
でしょうか?
答1-1:法句経(Dhammapada)の中
で、仏陀は開示して言った:
「一切の法は無我(sabbe dhamma
anatta)である」。
ここで言う所の一切とは、有為法と無為法
の事である。
有為法はすべての色法を含み、無為法は
とりもなおさず、涅槃の事である。
禅の修行者が観禅の修習をするとき、名色
または五蘊が、無常・苦・無我であることを
体験するが、彼は、その時初めて無我とは
何か、を理解し始める。
彼が道智と果智を聖悟した時、更に一歩進ん
で、涅槃もまた無我であることを、理解する。
空について言えば、その意義は、比較的広い。
たとえば、《中部・小空経 Cūḷasuññata
Sutta、Majjhima Nikāya》の中で、仏陀は、
以下のように言っている:
比丘が森に住んでいる時、彼の森に対する
想いは、大象、牛、ロバ、金、銀、男女の
集いによる集会が、空じ去られている。
比丘が、地遍を修習する時、彼の地に対する
想いは、森を空じ去っている。
比丘が、空無辺処定を修習する時、彼の
空無辺処定に対する想いは、地への想いを
空じ去っている。
その他の、さらに高い(+境地の)無色界定
については、同様の方法で、それらの空を
理解することができる。
比丘が観禅の修習をする時、彼の想いは、
常、楽と我を空じ去ってる。
比丘が涅槃を証悟する時、彼は真正なる空を
見る。というのも、涅槃は、名と色を空じ、
無常と我を空じ、貪、瞋と痴を空じ去った
ものだからである。
(+ )(= )訳者。(つづく)
句読点等原文ママ。
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>