Sayalay's Dhamma book

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パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-167

      問答(一)

問1-1:禅師にお訊ねします。

無我と空は、レベルの上で何が異なるの

でしょうか?

答1-1:法句経(Dhammapada)の中

で、仏陀は開示して言った:

「一切の法は無我(sabbe dhamma

 anatta)である」。

ここで言う所の一切とは、有為法と無為法

の事である。

有為法はすべての色法を含み、無為法は

とりもなおさず、涅槃の事である。

禅の修行者が観禅の修習をするとき、名色

また五蘊が、無常・苦・無我であることを

体験するが、彼は、その時初めて無我とは

何か、を理解し始める。

彼が道智と果智を聖悟した時、更に一歩進ん

で、涅槃もまた無我であることを、理解する。

空について言えば、その意義は、比較的広い。

たとえば、《中部・小空経 Cūḷasuññata 

Sutta、Majjhima Nikāya》の中で、仏陀は、

以下のように言っている:

比丘が森に住んでいる時、彼の森に対する

想いは、大象、牛、ロバ、金、銀、男女の

集いによる集会が、空じ去られている。

比丘が、地遍を修習する時、彼の地に対する

想いは、森を空じ去っている。

比丘が、空無辺処定を修習する時、彼の

空無辺処定に対する想いは、地への想いを

空じ去っている。

その他の、さらに高い(+境地の)無色界定

については、同様の方法で、それらの空を

理解することができる。

比丘が観禅の修習をする時、彼の想いは、

常、楽と我を空じ去ってる。

比丘が涅槃を証悟する時、彼は真正なる空を

見る。というのも、涅槃は、名と色を空じ、

無常と我を空じ、貪、瞋と痴を空じ去った

ものだからである。

(+ )(= )訳者。(つづく)

句読点等原文ママ

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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>