第一章 禅定
第一節 定、入定、出定
1、定とは何か?
定、梵語では禅那(=ジャーナ)と言い、
《大学》の中には「知止而後有定」という言葉
があり、故に(+中国文化圏では)「禅定」
という;
後期に翻訳された経典では、禅那は、完全には
その含む所の意味を表現できていないと考え
られて、「思惟修」という訳語が、現れた。
唐の時代、玄奘法師はまた、「静慮」と
訳出した。
実際、この言葉の定義は非常に難しく、弥勒
菩薩(+掲げる)所のある派は、思い切って
「瑜珈(=ヨーガ、ヨガ)」と言い
なしている。
瑜珈は、この種の修行に取り組む人を指し、
また、この種の修行体系の総合的な名称で
もある。
一般の人々は、宗教的な修行方法に非常に
詳しく(訳者注)、それぞれが、それぞれで、
独特のものを擁している。
しかしながら、それが独特であるが故に、
定の修習の観念の中において、偏差的な
意識形態が生じ、いわゆる「定」とは、
何も知らない状況になるのだと思い込み、
有相の修行行為の内に、断滅の境地に落ち込
む人がいる。
このことは、「動定無礙」及び《金剛経》の
中の「応無所住而生其心」の意味とは反する
ものである。
また、境地がどうのこうの(+と自慢し)、
超越静坐だとか、第六感だ!とか、神通だ!と
か(+喧伝するという)、これらの現象は、
非常に由々しい問題である。
というのも、「道」と「定」とは、関係がない
のであるから。
そうであるが故に、我々は、「定」とは何
であるかをはっきりと知る必要があるので
ある。
定は「共法」で、四禅八定は、仏教における、
証悟のための、基礎的な修行方法である。
そうではあっても、しかし、仏法は定の上に
あるものではなく、しかし、定とも離れても
いない。
気脈を好む者、座禅を好む者、これらは、
真正なる禅定ではない。
気脈の変化は身体から来ており、生理的な
ものであり、物質的なものである;
真正なる禅定は、生理と真理の束縛を超越した
所にあり、無分別なる覚体なのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。
(つづく)
言われるくらい仏教が盛んで、テラワーダから
チベット仏教まで、何でも学ぶことができる。
台湾人は宗教について、皆一家言、あるので
ある。台北他、都会では鉛筆ビルの最上階
が寺院であることがよくあります(目立ち
ませんが)。また、比丘より比丘尼の方が
多いのも、台湾仏教の特徴でしょうか。
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<陳居士著「「修心与神通」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>