Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「修心与神通」(翻訳文)-5

4、定を修習する者が定に入るには、定と慧に関するどのような等持(=等しい、同等の)なる路線があるか?
世尊は言う:「修静慮者、或有等持善巧、非等至善巧」
いわゆる定・慧双修とは、等持善巧の事である。
普通我々がいうように「禅密双修」「禅浄双修」または止観、念仏双修など、みな同じである。
非等至善巧については、もう少し専門的な道を歩むもので、たとえば、一門深入、門門入なる修行方法で、阿弥陀念仏、または観世音耳根円通など皆そうである。
一門深入の先決条件としては、仏理の基礎が深く、すべてに徹底して通じていなければならない。
理が徹底して通じていないのに、如何にして定に入り、道に入るというのか?
ある種の人々は、方便的法門に従って、定・慧等持によって、真正に空を証悟することができるが、いわゆる真正なる性空の境地を証悟するとは、成就する、ということである。
もし、己の想いを抑圧するという方法で、(+己の心を)圧していると、見たところ、多少の清浄もあり、空であるように思えなくもないが、しかし、それは嘘の空であり、第六識を利用して押しこめているだけであり、真正なる空ではない。
これは、己自身が見地において、深く体験する必要がある事柄である。
明晰に、定の心理的行為と定の境の真実なる現況に入ること、これを、真正なる喫入という。
言い換えれば、あの境地に入りたければ、すぐに入りれる事;我々のように、目の見えない猫が、死んだネズミにぶつかる~まぐれ当たりにぶつかって、偶然、一、二度できる、というものであってはいけない。
空の境地おいては、断滅空に偏る者がいるが、それでは円満ではない。
そのようであれば、出入定は「無想定」に至るまで、自在でありえない。
また、定に偏り、慧が足りない;慧に偏り、定が足りない;これはみな不正確なもの、バランスの悪い方便的な方法である。
というのも、定多く智慧少ないとき、無明が増長するし、定少なくして慧多いとき、邪見が増長する;そのようであっては、非非想定など、根本的に成功することはない。
鐘の音を聞いてからしか出定できないのであれば、すべては、善巧的な法門ではないのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出 
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>