Sayalay's Dhamma book

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パオ・セヤドー講述「菩提資糧」(翻訳文)-185

問3-7:

ある一人の比丘が、還俗の儀式をした後、

今なお、比丘だと自称している。

禅師にお伺いします。

すでに還俗した比丘に対して、在家居士が供養をした場合、その功徳はどのようなものでしょうか?

このような自称比丘が、他人を出家得度させ、または比丘戒を授けたならば、彼はどのような果報を受けることになるでしょうか?

答3-7:

《布施分別経Dakkhinavibhaṅga Sutta》によると、布施を受け取るのが一匹の動物であっても、または一人の道徳を持たない人であっても、布施者は依然として、その布施の中から功徳を得ることはできる。

しかし、このような功徳は、決して殊勝であるとは言えない。

というのも、この種の布施は、布施を受け取る人を通して、浄化されることがないから。

もし、比丘が還俗した後に、依然として袈裟を着て、比丘を詐称するならば、その人は<賊>と呼ばれる。

というのも、彼は、在家居士が出家者に供養する四種類の必需品(四事供養)を盗み取るからである。

仏陀の制定した戒律に照らすと、彼は「賊住」の人(10種類の波羅夷人の中の一種)となる。

この一生の内で、彼は、二度と出家して、比丘になることはできない。

問3-8:

ある種の人々は、涅槃は、断滅論と似ているのではないか、という疑問を抱いています。

禅師、涅槃と断滅論はどのように異なるのか、

開示して下さい。

答3-8:

断滅論とは:いかなる原因を造作することなくとも、人は死亡すると、滅尽する、という考えである。

反対に、仏陀が教えたのは:

因があるが故に果がある;

ある種の因があれば、ある種の果を生じる。

たとえば、無明、愛(=渇愛)、取、行、業などというこれらの因があるとき、果報としての五蘊が生じる。

仏陀はまた:

因がなければ果はない、とも教えている。

たとえば、すべての無明、愛、取、行、業が、阿羅漢道によって取り除かれたならば、果報としての五蘊は二度と再び生ずることはない。

ゆえに、涅槃の教えは中道であり、それは自然の定理に従っており、因果が、お互いに(+お互いが因となり果となって)相い生じ合う法則を表している。

次に、もし人が:無明、愛、取などの、これらの因を取り除いた後(+であっても)、いわゆる涅槃というものは存在しない、と言うのならば、その人は、常見の人だ、と言われる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)

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<パオ・セヤドー講述「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>