もうだいぶ以前の話ですが、台湾で仏教系の映画を見たことがあります。
昔の事ゆえ、映画の題名は忘れましたが、内容は覚えていて、主役は、インドから中国へやってきて禅を伝えた、達磨大師。
映画の始まりは、達磨大師が嵩山少林寺に来て、少林寺の僧侶たちに「仏法とは何か」を教える日の、朝。
早朝から、僧侶たちは、本堂の前で、達磨先生の来るのを待っています。
みなさん、特に青年僧たちは、達磨先生を通して、インドの新しい思想、新しい哲学に触れられるという期待感で、胸が一杯。
さて、達磨先生、少しもったいぶって出てきて、本堂を背に座ります。
手には経典が・・・、居並ぶ僧侶たちは、皆、その仏典の解説をしてもらえるのだと思って、固唾をのんで、待ちます。
一分、二分、三分・・20分経っても、30分経っても達磨先生は一言も発せず、目を瞠ったまま座っていて、一時間ほどすると、スーと立って、クティに戻ってしまいました。
講義を聴けると思って集まっていた僧侶たちは、ポカーーンと口をあけたまま呆然・・・その後は「なぜ講義をしてくれないのだ!」「時間を無駄にしたではないか!」と抗議の嵐。
達磨先生は言います:
「私の座る姿そのものが、教えなのだ」
「仏法とは、ああでもない、こうでもないと、理論を語り合うものではないし、もとより、出世のための手段でもない。」
「仏法とは、実践しなければ、無意味なのだよ。」
「ただ黙して坐禅せよ。」
もちろん、実践するのは「空」です。
こうして教外別伝、直指人心の禅は中国に伝わり、現代で禅が一番盛んなのはアメリカだと言われています。
そうは言っても、そもそもの理論が間違っていれば、行きつく先も間違えてしまうので、理論を無視する事はできません。
しかし、人は、良い思想、良い理論に出会うと、それが理想的であればあるほど、「論語読みの論語知らず」の陥穽に嵌いる事に、気が付かないのです。
理論を学びつつ、実践を怠らない。
理論はあくまで、実践の裏打ち、のためにあるもの。
結局<中道>が一番いい、ということになります。。
☆映画の続きは、その後に、腕を無くした男性(後の慧可)がやってきて、達磨大師の弟子になり、厳しい修行ののちに悟りを開き、法を継ぎます(達磨大師が「慧可よ、君は私から何を得たのか?」と問うと、慧可はただただひたすら泣いて、泣き続けるのです。その時、達磨大師はいいます「慧可は私の髄を得た」と。)
映画では、慧可は、達磨大師の弟子になるために腕を切ったのではなくて、元々、戦争で片腕を無くしていて、大勢の敵を殺したことで、苦しんでいた、という設定でした。アングリマーラの中国版、ですね。
☆ちなみに、達磨大師の、インドでのアーチャリヤ(指導者)は女性だそうです。