禅の公案に<婆子焼庵>というのがある。
内容は、ある一人のお婆さんが、一人の僧侶を自分の家の離れにおいてあげて、色々世話をして修行の手伝いをしてあげていたが、長年の修行がうまくいっているかどうか試した所、不合格で、老婆は、その離れを焼いてしまった、というお話(詳しくはインターネットで)。
修行してどのような人間になるのか、または、なれるのか。
神通力を持っている人間は、心が清浄であるが、神通力をもっているからと言って、その人の心は清浄とは限らない。
ジャーナに入るには、心が清浄でなければならないが、ジャーナに入れるからといって、その人の心が清浄とは限らない。
私たちは、仏教を学び、仏教の修行をするけれども、どこからどこへ向かうのか、心しなければならない。秋の夜長にそんなことを思いました。