テーラワーダはタイ、ミャンマー、スリランカ、ラオスなどに広がる仏教で、またの名を、上座部仏教、南伝仏教、また初期仏教、原始仏教等と言われ、仏陀の教えをなるべく変形しないよう気を付けながら、その教えを、古のまま、守っていると言われています。
対する大乗仏教(北伝仏教)は、仏教が仏陀の伝道した地域を離れ、インドの西へ西へと伝わった後、シルクロードを通って、中国から朝鮮、日本へ伝わったものをいいます(内容的には、<方便>を重視して、その国、その地域の人々に仏教を理解してもらうためなら、教理や修行方法等、多少の変形はOKという立場)。
私は子供の時から仏教が好きで大乗経典を読んでいたのですが、一つは、世尊ってこんなこと言うかしら?という素朴な疑問を感じました(大乗経典は、なんだか隔靴掻痒の感じがするのです)。
二つ目は、現実に見る日本の僧侶が妻帯し、家庭を持ち、お寺が文化遺産になり、仏教の伝承が家業になっているのを、とても不思議に思ったのです。だって、仏教って、無常・苦・無我を知るために、修行するのではなかったっけ?と子供心に思ったものです。
そんな訳で、私は子供の手が離れると、タイやミャンマーに仏教の勉強に行くようになったのですが、その途中、私の祖国である台湾に、よく寄るようになりました。
台湾に行ってみると、はてさて、大乗の僧侶、尼僧が(独身のまま)大いに活躍していて、人々の信頼は、目を見張るほど、絶大です。
そして、彼らが出版する仏教書には「仏陀の本懐に帰ろう!」と書いてあります。
「仏陀の本懐?」それってテーラワーダのスローガンじゃない?と思いましたが、仏教の歴史を深く勉強してみれば、事はそれほど簡単ではありませんでした。
大雑把にいえば、仏陀が般涅槃された後、最初は、上座部派が有利だったものの、徐々に教理と実践が現実と合わなくなり(部派間に<無我>の説明が異なっていて統一見解がなかったこと、仏教が学問化したことなどが主な原因)、それに対抗するようにして、大乗派が出てきました。仏陀般涅槃500年後に彼らが作った大乗経典は、仏陀の金口ではないけれども、彼らからすれば、仏陀がご生存なら、きっとこういうに違いない、という大いなる確信の元、大乗経典は編纂されたわけですね。
喧嘩両成敗と言いますか、大乗派に批判された上座部にも問題があり、今、テーラワーダから<仏陀の本懐に戻ろう>というスローガンで批判されている、現代の大乗もまた、いささか問題がある、ということなのでしょう(台湾のテーラワーダ派は、「仏陀の本懐に戻ろう」を合言葉に、方便の行き過ぎ~大乗仏教には仏陀が述べなかった阿弥陀仏、観音様などが出てくる~を批判しています)。
ものごとは、揺れるヤジロベーのように、常に変化している。または弁証法的に止揚され、また、変化していくのでしょう(無為法は変化しないけれども、有為法は変化する)。
自分が発見した真理を、イヤ、これだけが絶対に正しいのだと、固く掴んだ瞬間、私たちは間違ってしまうのだ、ということかもしれません。