もしも、禅の修行者が、世間聖道、すなわち観智であるが、それを育成し、それが熟した時、観智の末端において、涅槃を知見する出世間聖道が生起する。
出世間八聖道分を証悟するとき、それらは、諸々の煩悩を、徐々に、余すところなく尽滅する。
観智を育成する時、修行者は、苦諦法と集諦法のこれらの行法を、無常・苦・無我として、観照する必要がある。
ここにおいて、私は、無常・苦・無我とは何かを、はっきりとさせたいと思う。
無常とは何か?
五取蘊及びその因は無常である。
なぜか?
それらは、生・滅しており、変易しており、または、それらは有るという状態になった後、再び存在することがないから、である。
生・滅と変易は、無常の相であるか、または変化の方式である。
言い換えれば、有るという存在になりながら、次には二度と存在しなくなるのは、無常の相である。
同じく、五取蘊及びその因は苦である。
というのも、「無常なるものは苦である」と言うから。
なぜか?
というのも、(+それは)不断に生・滅の圧迫に遭遇しているから。
不断に生・滅の圧迫に遭遇しているのは苦である。
また、ジャーナの楽またはジャーナの法(=現象)も、苦である。
なぜか?
心と身の楽受は変易法(変易苦)である。
というのも、それらが変易する時は、苦の生起の因であるから。
捨受及び三界の中のその他の行法は、行苦と言う。というのは、それらは生・滅の圧迫に遭遇しているから。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(つづく)
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<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>