Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~一日の恩人

私は子供の時から仏教が好きでしたし、中学生のころは、禅宗のお寺で出家できないかな、なんて考えていたくらい。

ただ、なぜ座禅・瞑想をやるのかという事を解説した子供向けの本がないので、ここの所が今一つよく分からず、もし、座禅・瞑想が無意味な行為、一種の徒労行為だったらイヤだな、なんて二律背反的なことを考えていました。

この疑惑に転機が訪れたのは、通訳の仕事で中国河南省鄭州市に滞在し、休日に嵩山少林寺少林寺拳法発祥の地)に連れて行って頂いた時です。

鄭州市の、友好交流を請け負うセクションが手配してくれたのでしょうか、少林寺には、河南省仏教協会主席、という肩書を持つ男性が随行してくれました。

当時、皆人民服を着ていた時代(すみません、若い方はお分かりになりませんね・・・^^;)、彼は、パリッとした背広のスーツ姿で、優しさと、威風堂々の貫禄がすごかったです。

その彼が私に「貴女の事をさっきから観察しているのだけれど、とても落ち着きがない。座禅・瞑想してはどうですか?」と言ったのですね。

私はまだ若くて、座禅・瞑想の効用を知らなかった頃で、とっさに「嫌です!」と返事してしまいました(自分は、通訳として雇われてここに来ているので、この人と私的な事柄を話し合う暇はないんだ、というプロ意識を発動しまして、バシッと言い返した訳です)。

すると彼は、「座禅・瞑想は地味で、味気なく、つまらないから、誰もやりたがらないです」「それなら習字はどうですか?」と言いました。

この時の、<座禅・瞑想は地味で、味気ない>という言葉が、私の胸に響きました。

仏法を知るためには、座禅・瞑想が必要だ。

それは味気なくても、つまらなくても、仏教徒なら、やらなければならない。

そのことがコトンと腑に落ちて、私は日本に帰ってくると、即刻、座蒲を用意して、座るようになりました。

今は、安般念(出入息観)で息をみるのが楽しいし、リトリートで何日座っても飽きませんが、座禅・瞑想は元々、地味で味気ないものだ、という諦観があるので、座禅・瞑想がうまくいかなくても悲観する事はないし、嬉しいとき悲しいとき、傍にいてくれる親友みたいなものになりました。

シャーリプトラ尊者は、最初に仏法とは何かを説明してくれたアッサジ尊者にいつも感謝していたそうですが、私も、「仏教は信に値する」と高らかに宣言して、座禅・瞑想を勧めてくれた、当時の河南省仏教協会主席にとても感謝しています。その日、一日一緒にいただけですけれど。

(座禅・瞑想と習字は、サティを育成する手段、という意味において、同等なのですね。禅僧が書画をよくする、とはそういう事です)。。