wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

是誰庵のひとやすみ~私とは誰か?

 今年の夏、クムダ・サヤドーの、熱海での

リトリートが終わった後、私は『無我』

ブッダダーサ尊者著)という本の翻訳に

取り掛かりました(現在<菩提樹文庫>で

公開済み)。

その理由は、我々仏教徒は、仏教徒にとって

最も重要な問いかけ、「私とは誰か?」に

ついて、誤解が多いのではないか?と

思ったからです。

誤解する、その一つの理由が、「仏教は無我

である」と言われて「ああ、私なんていなんだ」

と思ってしまう事に、あると思います。

ブッダダーサ尊者も著書『無我』の中で、

「無我」を説明するのは非常に難しい。

「無我」の説明が上手にできないが為に、

仏教はインドから姿を消したのだ、

と述べています。

 

先日、『仏陀与仏法』(ナーランダ長老著、

中国語版)という本を読んでいましたら、

こういう表現がありました。

 

仏陀が子息ラーフラに与えた忠告に

以下のような文言がある:

「此身非我、非我所、非我之霊魂」

(Ne'tam mama、 n'so'ham asmi, 

na me so atta。)

 

私はパーリ語が不案内なので、パーリ語と、

この中国語訳が合っているかどうか分かり

ませんが、一応合っているという前提で、

私の意見を書いてみます。

上記の中国語を、日本語に直しますと、

以下の通り。

 

この身体は、”私”ではない。

この身体は私のものではない。

この身体は、私の霊魂ではない。

 

仏陀はしかし、<本当の私はない>とか、

<私はいない>とか、言ってはいないのです。

仏陀は、身体は霊魂ではないし、身体の中に

霊魂があるという事もない、と言って

いるのです。

この事は、観禅で色聚(ルーパカラーパ)の

離合集散を観れるようになった人は、

如実に分かると思います。

心・身は己のものではない、という事は

修行すれば分かります。

では、誰が誰のために修行し、涅槃へ

行こうとしているのか?

もう一度言います。

「無我」(上記文中赤文字で示した部分の、

非我は無我と同じ意)とは、身体(五蘊

とも理解できる)の中に、それを主宰

(=コントロール)する主宰者(=神、霊魂)

いない、という意味であって、決して、

「私はいない」という意味ではありません。