Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「南伝仏教キホンのキ」(翻訳文)2-9

摩嗄藍は再び問うた:

”一人一人の弟子は、そのように指導された後、修行の最終目標ーー涅槃を証悟する事はできますか?”

世尊は答える:

”ただ一部分の人だけが、修行の最終目標ーー涅槃を証悟することができます。ある種の人々はできません”

摩嗄藍は不思議に思って問うた:

”友、ガウタマよ。涅槃は存在しており、涅槃へ向かう道も存在していて、あなたはその指導者である。どうして、あなたの弟子は、このように指導されて後、ある種の人々だけが涅槃を証悟でき、ある種の人々には証悟できないのでしょうか?”

世尊は答える:

”では、私が訊ねます。あなたは、王舎城へ向かう道を知っていますか?”

”ええ、友よ。私は知っています”

”もし、ある人が、王舎城へ行く道をあなたに尋ね、あなたは詳細に、その方向と道筋を教えてあげたとする。その人は、あなたが示した方向とは反対の道に間違って向かってしまった。もう一人の人も、あなたに道を聞いたが、彼は聞いた通りの道順を行って、王舎城に順調に到着した、とします。

私はあなたに問います。

王舎城は存在している。王舎城へ向かう道も存在している。あなたはその道を教えることができる。それなのに、なぜ、ある人は反対の方角に歩いて道を間違えてしまい、もう一人は順調に王舎城に到着する事ができるのでしょうか?”

”友、ガウタマよ。このことに対して、私に何ができるでしょうか?私は道を教える事しかできません”

世尊は言った:

”同様に、涅槃は存在するし、涅槃への道も存在する。また、私はその(+道を教える)指導者である。しかし、私の弟子は、このような指導を受けた後、ある種の人々だけが涅槃を証悟でき、ある種の人々は証悟することができないのです。このことに対して、私に何ができるでしょうか?私如来は、ただ道を教える人にすぎません。”

上記の経文を通して、我々は、仏陀仏教における地位が分かるーー彼は、ただ涅槃への道を指し示す人に過ぎず、真正に教えを守り実践することができるかどうかは、修行者個人の問題なのである。

仏陀は《法句(+経)》の第276偈で言う:

”あなた方は、

己自身で努力しなければならない。

如来はただ道を示す人に過ぎない。

勤勉に勤め励む修行者は、

魔の束縛から解脱することができる。”

 

仏陀の教法に神秘はなく、麻酔の要素もなく、他力もなく、救世の信仰もない。

仏陀は、人々の吉凶や幸不幸をコントロールすることはなく、人を助けて消災や贖罪をすることもなく、私利貪欲なる神霊を満足させることもなく、美しい世界を創造すること(+を呼びかける事)もなく、神を信じて永遠の天国に行くようにと、教えているわけでもない。

仏陀は智慧と慈悲を具足した偉大な導師ではあるが、彼は、彼に対して人々が盲目的に崇拝するのを好まなかった。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-10につづく)

訳者コメント:下線訳者。「涅槃は存在する」貴重な宣言ですね。涅槃とは何か?よく「無記だから、あまりよく分からない」と言われますけれど、常・楽・無我・清浄ではあるらしいです。涅槃体験自体は、人間の言葉では説明できない不思議な境地、でも「絶対に存在する」、そんなところでしょうか?

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>