仏教には、非常に重要な禅の修行論があるが、その名を《清浄道論》(visuddhi‐mgga)という。
当該の論では、以下のように解説する:
苦、パーリ語ではdukkha、du(下劣な)+kha(空無な、空虚な、空っぽな)から、構成されている。
というのも、生命は、おおくの禍の元であり、また、生命があれば、必然的に各種各様の不円満があるが故に、下劣な、という。
同時に、生命には、元々、あれら愚かな人々が執着するような恒常、清浄、楽しさ、自我の本質を持ち合わせていないものである。
故に、空無、空虚である、という。
下劣で空無であるが故に、”苦” という。
上記は、語源の学問的視点から分析したものである。
経典の中では、仏陀は”苦”をこのように説明している:
苦とは何か?
生は苦であり、老いは苦であり、死は苦であり、愁慮、悲哀、痛苦、憂いと傷つき、煩悩は苦である。
嫌いな人と共にいるのは苦であり、いとしい人と別れ、別離するのは苦である。
願望を追い求め、実現できないのは苦である。
簡単に言えば、心身に執着する事がすなわち、苦である。
仏教では、苦を強調するけれども、しかし、生命に楽しみと幸福がある事を否定するわけではない。
仏陀はかつて、以下のように述べた事が有る:
欲楽の目標としての色、音、匂い、味、触覚などは完全に苦であり、それには全くの楽しみがないとするならば、人々はその中から楽しさを得る事ができない。
まさにこれらの対象が、人々に楽しさを齎すが故に、人々はその中から楽しさと享楽を得ることができる。
そうであるから、人々は、それらに執着するのである。
それらを追い求め、執着するが故に、人々は、自分自身が、汚染されてしまうのである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(3-3につづく)
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>