この九種類の方式による長い入息と長い出息の意味する所とは、まさに「身」(kāya)である。
(処を)打ち立てる事は念である。
観は智である。
身は(処の)成立であるが、しかし、念ではない。
念は(処の)成立と念の両方である。
当該の念と智を通して、修行者は当該の身を観ずる。
これが「身を身として観ずる随観の念処を育成する」と言われる所以である。
短い息に関する解釈も同様である。
ゆえに、以下のように理解するべきである。
比丘がこの九種類の方式によって、入る息と出る息を「長時間である」または「短時間である」と知るとき、彼は、「吸う息の長いとき、彼は『私の吸う息は長い』と知り、吐く息が長いとき、彼は『私の吐く息は長い』と知る。吸う息が短い時、彼は『私の吸う息は短い』と知り、吐く息が短いとき、彼は『私の吐く息は見短い』と知る」のである。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-36につづく)
訳者コメント:下線訳者。
kāya をそのまま、「身体の事」として理解している瞑想者が
いるが、kāyaは、息全体であって、身体をいうのではないので、
注意が必要である。中国語で言う<身身観念処>は、
アーナパーナサティの事であって、身体の観察の事ではない。
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>