しかし、それ(身)は念ではない:
身(=息全体)は、「打ち建てられる」とは言われるが、しかし、それを「念」とは呼ばない。身は念の目標であるが、しかし、それは正念を保持するための作為ではない。
念は打ち建てられる(処)であり、同時に念の両者である;
念がこの二者であるということは、憶念(sarana)と打ち建てられる(upaṭṭhāna)であるが故に。名身の中の念は、智の目標であると同時に、智と相応する念は、すなわち、それ(上述の念)に近づいて、それを目標として、それに安住するからである。こうしたことから、それは打ち建てられると念の両者である、と言われる。
念は、目標に投入することと、目標を持続的に憶念すること(念の両義的含意)なのである。
当該の念を通して;上述した念を通して(+という意味である)。当該の智を通して;上述した智を通して。当該の身;入息と出息の全体。その支えとなる色身、名身。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-41につづく)
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<パオ・セヤドー「菩提資糧」1999年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>