ある種の経典の中で、仏陀は在家者に対して、布施と、持戒、禅の修行をするべきだと、強調している部分がある:また、信仰を持ち、戒行を完成させ、善きを楽しみ、布施を好み、智慧を育成するようにと、常に教えを説いてもいる。
この指導(+内容)を見ていると、戒・定・慧とは、多少の異なる点があるようにも、思える。
しかし、実際は(+仏陀は)、ただ一つのテーマを巡って、説明しているに過ぎない。
それは、在家者に対して、もう少し基礎的な指導を行っている、という訳である:
信仰があれば、精神生活は更に充実するし、人生に対して、更に明確な価値観と方向性が得られ、日常生活や、仕事の上で、また感情的な部分で、それらによる挫折によって、打ち負かされることが少なくなる。
在家者は、財産を擁したいと願うし、善き未来を望むのであるから、布施という行為は、実践可能であり、また、必要なものである。
また、禅の修行そのものは、止と観の修習であり、定と慧を育成するもので、ゆえに、持戒と禅の修行を勧めるということは、戒・定・慧の三学を指導していることでもある。
このことから:仏教は仏陀による教えであり、智慧、覚醒と実践を強調している(+ということがわかる)。
仏陀は我々に、心・身に関する真相を理解し、己の煩悩を明確にするように指導しているが、それは、煩悩を断じ滅するために他ならない。
仏陀は、煩悩を断じ滅する為の、一本の明確な道筋を指し示した。
この道は、三つの段階に分けることができる:
第一番目は、己の戒行、品徳を高める事。
二番目は、心内の安寧を確立するよう、努力する事。
三番目は、智慧を育成し、智慧を通して、煩悩を断ち、苦の原因を根本から取り除く事、である。
煩悩がないとき、生死輪廻はなく、二度と苦に見舞われることはない。
これが仏陀の教えである!
訳者コメント:下線訳者。南伝仏教では、大乗仏教で行われている、阿弥陀信仰のような、他力本願的な<信仰>は、ない。
通常、ヨルカ(=ソータパナ)になる前の、凡夫の仏教徒は、本当には仏教の真理を体得していないがために、南伝仏教において、ヨルカ予備軍であるうちは、<彼は仏法を信仰しているレベル>と言われる。仏法を学ぶには、よく聞いて、よく考えて、納得した上で実践する、という科学的態度が必要である。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(4-15につづく)
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<無憂比丘著「南伝仏教キホンのキ」中国語→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>