もう 20 年近く前に、緬甸の瞑想方法のひとつ、マハーシ瞑想の<ラべリング方式>というのを学びました。
たとえば、烏が<カー>と鳴いているのを聞いて「音」「音」「音」とラべリングする。
(烏の)鳴き声で嫌悪感を生じないよう、「これは音に過ぎないのです」と自分を納得させる方法、と言えるでしょうか?
しかし、この方法を使って、台湾で修行している時、台湾の若い女性が「でも、<カー>って聞いたら、それはもう、カラスの鳴き声であって、『音』『音』だなんて、そんな嘘のラベリングはできない」と、ずっと、ずっと、ずっと、しつこいほど、言い張っていました。
私も「そう言わてみれば、『音だ』と思う前に、もうすでに『烏の鳴き声だ』っ認識してしまっているのに、『音』『音』とラべリングするのは、自分の実感、現実とずれているなぁ」と思ったものです(そして、そのうち、パオ瞑想をするようになって、ラべリング方式は、すっかりご無沙汰してたのですが・・・)。
昨日、ある仏教書(「掌中の葉」P173 )を読んでいて、私、「えっ」と、椅子から飛び上がってしまいました。
<六つの根門を守る方法>という項に、音を聞いたら、ただ「聞いている」「聞いている」とラべリングする、というのです。「音」「音」ではなく。
ある種の臭いにがしたら、ただ「嗅いだ(嗅ぐ)」(「匂い」ではなく)とラべリングする。
心身に痛みを感じたら、ただ「感じる」「感じる」とラべリングする(「痛み」ではなく)、というのです。
ああ、これなら理解できます。
身体のどこかが痛い時、「痛み」「痛み」といくらラべリングしても、心は成長しない。
「感じる」「感じる」とラべリングすると、痛みの現象に纏わる、無常・苦・無我が体感できる、という事を私は体験上、知っていましたので(私は現在、ラべリングすらしないで、ただ、だまって見ている、だけですが)・・・、今回、ラベリングに関する論理的な方法論を読んで、台湾の若い女性が、あの時、名詞によるラべリングに、ある種の違和感を感じて、抵抗していたのは、こういうことから来ているのだと、大いに納得した次第。
しかし、日本では(台湾でも?)いつから、ラベリングに「音」「音」、「痛み」「痛み」と、名詞を使うようになったのでしょうか?
その功罪やいかに?