Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★「目の中の塵」(翻訳文)1-7

これ以外に、誘惑も不断に発生する。

仏陀は最初、菩提樹の木の下に座っていた時、もうすぐ悟ろうかという、その少し前、誘惑という事象が発生した。

魔王の娘たちが、仏陀を誘惑して座禅から離れさせようとしたのである。

このような、すでに成就した聖者の心中にさえも誘惑が生じるのであれば、このことに鑑みて、我々は、本当に、不断に、誘惑を受けており、そのために間違った行為、言語と意念をしていることであろうかという事;また同時にどのようにして誘惑に対峙しようかということも、分かるのである。

我々は、不善が己に苦痛を齎す事に恐れを感じる。

人々は、己自身の仕事を実践する時、この種の誘惑、心の汚染は避ける事が出来ない;

己自身は、己自身の仕事に忙しい。故に、私が誰かを傷つける、ということなどできはしない。

ただ己のみが、己に対して、そのような事(=傷つける事)が、できるのである。

己自身を傷つけようとする考えは、往々にして生じるものである。はっきりしている事は、普通の人々は、みな間違いを犯す、という事である。

しかし、いまだ調教を受けていない馬を、どのように躾けることができるだろうか?

その答えは:不断に、一つの教訓を、なんども繰り返し実践する事、である。

あなたが一度、調教師となったからには、善き、巧みな調教師でなければならない。私はあなた方が、野生の馬を見たことがあるかどうか、知らない。

彼らは、四方八方駆け巡り、各方面にバラバラに散り、自分自身にトラブルを持ち込むのである。実際、ある時には、(+馬たちは)水たまりに落ち込んで足を折り、死んでしまうことがある。

調教師は、飽くことなく、己自身と馬を守るために、馬を調教し、指導する。

しかし、(+上述の)仏陀(と調教師との会話)の物語からも分かるように、繰り返し教える事には、限度があるのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-8につづく)

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<ケーマ尼著「「目の中の塵」中国語→日本語

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>