Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★「目の中の塵」(翻訳文)1-8

もし我々が普通の人間であるならば、悪を恐れなければならないし、悪を恐れれば恐れるほど、誘惑されなくなるであろう。

しかし、これは我々が、他人、教師、法またはすべての善なる物事を恐れなければならない、という事ではない。

我々が唯一恐れなくてはならないのは、(+心の)汚染であり、故に、それらを無くすために尽力しなければならない。

我々は、心内の汚染を敵と見做すのではなくて、(+それが存在することについては)一種の挑戦だと見做すのが、良い。

これらの汚染は言うに違いない:

「お前は、私の企みに捕まり、私の手の中に堕ちるかい?お前は、私を取り除く事ができるかい?」と。

己自身の(+心の)汚染に懊悩しても、何の役にも立たない。というのも、それもまた、もう一つの、別の煩悩であるから。

汚染を退治する唯一の方法は、それの存在を察知して、それを(+己自身への)一種の挑戦であると見做すことである。

もし、生命の中に、一筋程の挑戦さえもないのであれば、生気もないことになる。

これが、我々が毎日、新しい事物を学んで、身・口・意(習気)への挑戦を、実践しなければならない理由でもある。

我々は、一たび、少しばかりも変化しようとしないならば、独りよがりの方法に固執し、(+己自身を)改めることができなくなる。

もし我々が、悪を恐れない人間であるならば(訳者コメント=悪を恐れる人間であるならば、の誤植か?)恐れの概念を知っていなければならない。

これが、仏陀が言った「鞭」というものである。仏陀にはかつて、己の行為を点検しない弟子がいたため、仏陀は厳しく責めて、訓戒し、何度も戒を制定したため、現在に至って、我々に五部の律蔵が残されたのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-9につづく)

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<ケーマ尼「目の中の塵」(翻訳文)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>