精進の近因(=直接原因)は、怖れの心または精進事
(=精進そのもの)である。
生・老と死は、我々をして、最終的に生死輪廻から解脱できるような正見を、急ぎ育成させるよう促すことができる。
我々が、出入息、または安般禅相、または究極法に対して、正念を保持するのを受け入れ、促す時、決して、一個の自我が存在して、正念を保持しているのではないことが、分かる。
正精進は、一種の究極法であり、それが生起するのは、その因と縁が強化された事、及び、(+心の)支えによるのであり、また、その相応(+する心)、正念を具備する心、(+が原因)でもある。
精進は、勇猛果敢に、かつ持続的に、八聖道を育成するために、必要である。
というのも、それは、苦の滅に至る、唯一の道であるのだから。
老、病と死は、生きるうえでの事実であり、それは、我々に、急ぎ、正見を育成しなければならないことに、目覚めさせる。
それらは、我々の、牛追い棒である。
それらは、正精進の近因であり、言い換えれば、安般禅相または究極法に対して正念を保持するという実践項目に対して、精進することでもある。
精進とは「一切の成就の根である」
ーーこれは《清浄道論》における精進への定義である。
精進は一種の根(indriya)であり、ジャーナと証悟に到達する為に、他の根と同時に育成されなければならないものである。
精進は、怠惰を制御または阻止する。
怠惰は、ジャーナと証悟への障礙となる。
精進もまた道分の一種で、正精進(sammā-vāyāma)と言う。
正精進は、八聖道分の中の、正見と共にあって、初めて道分となることができる。八聖道における正精進は、四念処の修行を通して育成される。
究極法に対して正念を保持する時もまた、正精進が生じる。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-34につづく)
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>