本日のブログに<随所に主となる>のお題で、文章を書きました。
その中で<無分別知>について書いていて、ふと思いついたのですが・・・。
私が長年通っていたタイの森林寺院(アーチャン・チャーの分院)は、山の奥にあり、寺院の立っているその先は、ドン詰まりでした。
寺院というのは大体、そんな立地に立っていると思います(市民のコミュニティを担う<町のお寺>の場合は、開かれた所にありますが)。
細い一本道をクネクネとあがっていくと、突然開けたところに出て、そこにお堂や庫裏が建っていて、出家僧侶が瞑想にいそしんでいる。
私にとって森林寺院の立地というのは、母親の子宮を投影したもののように、思えます。
そして、仏教では本来、比丘と比丘尼ーー出家修行者の食事は托鉢で保障されており(内容は貧しくても飢え死にはしない)、三衣も年に一回、安居明け、カティナ祭の日に貰える。住む所は、空いている小屋を貸してもらうか、在家に寄進してもらか、どうしてもなければ、森に行って木を切ってきて、自分で建ててもよい。
こうして、出家者は衣食住を保証され、修行に専念する。それはまるで、何の心配もなく、母の子宮の中で眠っている胎児を彷彿とさせる。
構造上、母の子宮のような立地にある寺院で、まるで子宮の中の胎児のような、何の心配もない生活を保証された時、瞑想する己の心に<無分別知>が起こる。
そう、脳(と心)の緊張が緩む日が、来るのです。
父として、母として、夫として、妻として、社会人として働き、家庭を整え、子供たちを教養しなければならない俗世にいては、脳の緊張は取れない。
人は、出家して、黄衣を着ているから偉いのではない。
人は、出家して、寺院に住んでいるから偉いのではない。
出家して、世俗の義務に煩わされなくなった時に体験する、心と身体、脳の緊張がほどけていく感覚、すなわち、悟りを体験するから、偉いのです。
ですから、在家であっても、心・身体・脳の緊張を解くことができれば、それもまた偉いのです。
涅槃は誰でも体験することができます。
それは、心・身体・脳の緊張からの解放だからです。