諸法を如実知見する事は、仏教の目標である。
智慧は、必ずや、何が究極法で、何が究極法でないかを、知ることが出来なければならない。
邪見がある時、我々は諸法を、如実知見することができない。
究極的には、人、動物、また家屋は真実(+の存在)ではない。
それらは、究極名色法、または究極法に構成・組成されているだけなのである。
究極的には、真実とは、究極名色法である。
それらは、自性を有している。
それらが、一つ一つ、六門の内の一つに顕現する時、それらの自性を、直接体験することができる。我々は、定と慧を育成することを通して、仏陀の教えの真実性を、証明することができる。
その時が来れば、我々は、究極法とは、常なのか無常なのか、究極法をコントロールできる人または自我があるのかどうか、を知ることができる。
一つ一つの究極法は、みな、それぞれに自性の相を有している。その自性を識別することを通して、それとは別の究極法を、区別することができる。
もし、直接、究極法を見通す(=透視する)智慧を育成しようとするのであるならば、究極法の自性の相を知るだけでは、足りない。
定力を基礎として、段階を追って、智慧を育成し、その智慧をもって、有為の究極法の三種類の共相(=共通する相):無常相、苦相、無我相を見通す(=透視する)ことができるようにならなければならない。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-41につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>