理論的な(+ことを理解する)智慧は、パーリ語でpariyatti(教理)といい;修行によって直接、見通す(=透視する)智慧は、パーリ語でpaṭipatti(行道)といい;真理を透視するパーリ語は、paṭivedha(通達)という。
慧は、善根の一つであり、その他の四つの根と同時に育成しなければならない。すなわち、信根、精進根、念根と定根である。この五根を育成することを通して徹底的に四聖諦を知ることができる。
慧は、無明を克服する、その最たる重要性によって、根となる。
それは、見(見とは、無常、苦、無我の三相を知ることでもある)の特徴によって、それと相応する法(心と心所)を掌握・コントロールするものである。
《殊勝義註》の中の、同一の節の中において、慧の特徴は、照明(=明るく照らす事)と理解である、と言う。
それは以下のように説明される。
ちょうど、熟練した医師が、どのような食物が適切であり、どのような食物が適切でないかを知っているのと同じように、慧は、諸法が善であるか、不善であるか、有用であるか、無用であるか、低劣であるか、殊勝であるか、汚染されているか、清浄であるかを知っているのである。
育成された慧は、四聖諦を知見することができる。
《殊勝義註》では、更に進んで、慧について、もう一つ別の定義を、定めている:
慧の特徴は、徹底的に究極法の自性相に従うことによって、それらを知り、まったく一つの疑いもなく透視し、神の射手が射た<的の中心(目標)>そのもののようである。
慧の作用は、目標を照らす灯火のようであり;
現象は、迷わない事で、それは、まるで森の中の、非常に優秀なガイドのようである;
近因(=直接原因)は、定である。
というのも、仏陀は以下のように、言っているのであるから:
「定を有する者は、諸法を如実知見することができる。」
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-42につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。
ご協力、よろしくお願いいたします。
<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>