wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

是誰庵のひとやすみ~私は本当にいないのか?

 ゴータマ仏陀は、六年の修行の後、インド全土に流通していた婆羅門教(現在のヒンズー教)を否定して、それまで誰も気が付かなかった、ある種ブラックホールみたいな、物質と精神(有情と心と物質)の無常性・苦性・無我性を宣揚しました。

で、「無我」というと、<私なんて、いないのだ>と解釈する人がいますが、これには、要注意です。

瞑想・座禅の修行をして、自分の心と身体の状況を緻密に追いかけて観察することが出来るようになると、特に、少々の隙も許さず、絶え間なく、不断に観る事ができるようになると、たとえば、身体のどこかが悪い場合、身体の具合が悪い事は分かっても、<私(の体調)が悪い>とは思わないでいられることがあります。

(予備定から安止定までの色々なレベルの)定に入って、絶え間なく、ずっと痛みだけを追いかけて観察し続けていると、<私意識><俺様意識>が、出てこないのです。

で、これをもって<私はいないのだ>と断定するのは、大変に危険です(なぜなら、この立場は、虚無思想へとつながっていく可能性があるからです)。

私は20年間、中国語で書かれたテーラワーダ系の仏教書を日本語に翻訳していますが、一度だって「私はいない」などと翻訳できるような中国語、文脈に出会ったことはありません。

無我には、<有為法は縁によって生起する>と、<名・色法はコントロールできない。故に、名と色は、自分のものではない>という、二種類の意味が含まれています(含義は、もっとあるかも知れません)。

名法は、心と心所(心と一緒に立ち上がる心の属性)の事で、色法は身体の事ですが、なぜ「名・色は自分のものではない」と言うかというと、インド人は、己のコントロールできないもの、変化するものを「私のものではない」と表現する言語上の習慣があるからで、ゴータマ仏陀が「妻や子は私のものではない」と言う時、一つは、自分は既に出家したからという事と、もう一つは、変化するものは所有できないという、二つの事柄を言っている事は、押さえておくべきでしょう。

ではなぜ、心と身体は、己のものではないのかと言えば、名・色法の究極、すなわち、身体と心を、禅定に入って、素粒子レベル(実際には素粒子よりもう少し大きい色聚を観察する)で観察すると、それらは縁によって、刹那に生・滅しており、そして、それらの生・滅を止める手立てはなく、ただ生じるに任せ、滅するにまかせるより仕方がない、からです。

パオ・セヤドーの著書『顕正法眼』でも、<我々は、究極法は無常・苦・無我であると知るとき、それを制御できる人、または、それを制御できる自我は、ない事が知れる>と書かれています(No5-40 参照)。

マクロの身体とマクロレベルの思考作用は、ある程度コントロールできるけれども、ミクロの、素粒子レベルの身体と名法をコントロールできる、そのような人間、そのような自我はない。

しかし、注意してもらいたいのは、仏陀は「私はいない」とは、言っていない事です。

では「私はいるのか?」と問えば、それは無記です。

なぜ無記かと言えば、滅尽定に入って、涅槃(五蘊の滅尽)を証すれば、その理由が分かると思います。

「私はいるかどうか」は、「輪廻はあるかないか」と同じく、ある・ない論争をしても無意味なものの一つです。

修行して、観察して、自ら体験する。

その時、言論は止む。

追記:無我は、婆羅門教の真我を否定した言葉として使用されることもあります(己は、アートマンではない=not アートマン=ア・ナッタ=無我または非我。)中村元先生とその系列の先生方は非我説です(宮元啓一先生等)。