また、信と慧とを、バランスしなければならない。
止禅の業処を修習しようとする修行者にとって、強固な確信は、有益である。
というのも、多少信へと偏向した心は、安止(+定)へと導くことができるから。
もし人が、「安般似相に専注する定力を育成したならば、私は必ずジャーナに到達することができる」と思うならば、信の心と、当該の禅相に専注することによって、彼は必ずや、ジャーナを証得するであろう。
というのも、ジャーナとは、主に、定力に依存するものであるから。
定と慧のバランスも考慮されるべきである。
止禅の業処を修行する者は、強固な一境性が必要である。というのも、彼は、強固な一境性によって、安止に到達するのであるから。
観禅を修行する者は、強固な慧が必要である。というのも、彼は強固な慧を通して、諸々の相を透視するのであるから。
定と慧がバランスする時、禅の修行者はまた、安止に到達する。
観禅の修行者にとって、慧根は非常に有益である。というのも、慧根が強い時、彼は三相を透視することができ、(+それによって)無常・苦・無我の三相の智慧を、獲得することができるのであるから。
定と慧がバランスする時にのみ、世間禅(lokiya-jhāna)は、生起することができる。
仏陀は、定と慧の両方を、並行して修行しなければならない、と教えた。
というのも、出世間禅(lokuttara-jhāna)もまた、定と慧のバランスによってのみ、生起するのであるから。
信と慧のバランスであっても、定と精進のバランスであっても、定と慧のバランスであっても、念根は、必ず必要とされる。
念根は、すべての状況において適用される。
というのも、念は心を保護し、心をして、強すぎる信、精進または慧によって、掉挙に陥らせたり、強すぎる定によて、怠惰に陥らせたりすることを、防ぐことができるのであるから。
故に、すべての状況において、念は必要である。それはすべてのスープには、塩が必要であるように、また国王のすべての政務は、宰相によって処理されるが如くに。
故に、古い注釈において、「世尊は言う:『念は、どのような業処においても必要である』」と述べられているのである。
なぜか?
というのも、修行する時、念は、心の拠り所であり、保護者でも、あるからである。
念は拠り所というのは、それは心を助けて、心をして、以前において到達したことのない、以前において知らなかった、高度な境地に到達せしめるからである;
もし念がなければ、心はいかなる超凡の境地、非凡な境地にも、到達することはできない。
念は心を保護できるし、禅の修行における対象を見失わないようにすることが、できる。
これが、なぜ、禅の修行者が、以下の事が実践出来るのか、という理由である。
すなわち、観智でもって念を識別する時点で、彼が見ることになる念の現象は;それは、修行において専注している対象を保護する事ができる上に、また、禅の修行者の心を保護することができる(+ということである)。
もし、念が欠けている時、禅の修行者は己の心を策励する事も、制御する事もできない。
これが、なぜ、仏陀が、念は、一切の状況において、応用、適用することができる、と述べた理由である。
<《清浄道論》第四章、第49節;《大疏鈔》第一冊、参照の事>。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-50につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
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<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>