二、正行
正行(定の修習における心の用い方・法則)
ーー如実と自在
「渇愛に征服された人、彼の行道は艱難辛苦(苦行道)であり;渇愛に征服されない人、彼の行道は容易(楽行道)である。」
「落ち着きと優しさに熟練しない人、彼の行道は艱難辛苦であり;落ち着きと優しさに熟練する人、彼の行道は容易(楽行道)である。」
《清浄道論・第三章》
この段階において修行する時、我々は、自分がどれほど長く座っていられるかを、過度に強調するべきではない。そして、以下の二項目について点検してみるのが良い:
一番目に、我々は、渇愛の心で修行していないだろうか?(+を点検する)。
渇愛の心で修行するのであれば、それは、世俗で活動しているのと変わらないことになる。
たとえば:連続して何日もTVのドラマを見続けたり、授業をさぼってゲームセンターで遊んで、多くの問題を引き起こしたり・・・これらの活動は、我々に楽しみを齎すことが出来るけれども、しかし、この種の楽しみは「邪楽」である。というのも、それは渇愛を伴う楽しみであるから。
《アビダンマ論》によると、二つのグループの心は、楽しみを伴うものである;一番目のグループは善で、もう一つのグループは不善である。
不善な楽しみとは、必ず、貪愛(すなわち、渇愛)が伴っており、ある時には邪見(たとえば、我見)または驕慢さえも、伴っている時がある。
善の楽しみは、貪愛を伴わず、信心、正念、無貪、無瞋、中捨などのポジティブな要因が、随伴しているものである。
渇愛の心で修行しない事を、如実に修行する、という:
一センチは一センチ、二センチは二センチ。呼吸が長い時、呼吸が長いと知り、呼吸が短い時、呼吸が短いと知る。これは言うだけなら簡単だが、実際には非常に奥深いもので、言うは易く行うは難い。
我々がよく犯す間違いは、現状に不満を鳴らす事である;我々は、呼吸が短い時、不満足な気持ちから、呼吸が長くならないかと試してみたりする;また、呼吸が長い時、我々は、忍耐心がないために、それを短くならないかと試してみたりする。
これら故意に、または習慣的に(+対象を)コントロールしようとするのは、渇愛によるものである。故に、ここにおいては、渇愛の無いことを「如実」と呼ぶ。
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-9につづく)
Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。
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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>