Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵のひとやすみ~愚僧による無我に関する覚書(レベル低いかも)

仏教で言う「無我」、これは何であるか、なかなか説明が難しいです。

大きく分けて、テーラワーダの<無我>と、大乗禅宗系の<無我>が微妙に、というか、大いに違う(ように私には思える)。

テーラーワーダで言う<無我>は、

(1)己の人格は架空である、という事(修行して既有の<自我>が崩壊するのを体験して、<無我>と言う)。

(2)素粒子レベルの色聚(ルーパ・カラーパ)と心を、深い禅定に入って観察すると、それは誰のコントロールも受けていない事が分かる。

すなわち、五蘊が、刹那に、縁生・縁滅するのを<無我>と言う。

(3)誰のコントロールも受けないものは、誰かによって所有する事もできないので、<無我(無我所有)>である。

などと定義できる。

そして、上記に関連した内容の体験を、禅宗の人に報告すると(1)には賛成でも、「まだ、俺様が<無我>を観ている、という俺様意識があるうちは、ダメだ」と言われてしまう。

日本の禅宗では、(2)(3)は、余り言わない。

では、もう一つ、別の問題の建て方。

滅尽定という深い禅定に入って、色蘊と心を合わせた五蘊が、同時に消滅しているのを、観察できた時(その方法は、パオ・メソッドにて説明されている)、では、心、すなわち、意識が完全に滅している状態で、五蘊が滅していること自体を<知っている>のは誰か?という事(禅定から出て来て、素の意識に戻って、滅尽体験を説明する訳ですから・・・知っている・・・のですよね)。

A「<無我>の悟り体験(自我の崩壊体験)を、観ていた誰かが、いてはならない」

B「滅尽定は、見届ける誰もいない(私は観た、と言ったら、それは滅尽定ではない)」

C「滅尽定は、見届ける誰かがいるからこそ、滅尽定と分かる」

仏教界では、上記ABC、三種類の概念が混同して語られ、私のような愚僧は、「???」状態。

その上に、

D「人は永遠に、本当の自分に、会うことは出来ない(自分探しは無駄)」(ヤージュニャバルキア)で、この事を「私はいない(無我)」と表現することがある。

E「念の力が弱く、瞑想中、瞑想の対象を見失って、有分心に落ちると、涅槃体験したと錯覚するタイプの人がいる」

という説もあるから、ややこしいことこの上ない。

議論して、相手を打ち負かしたとて、堂々巡り(どうやら<私><我>という言葉で、各々、異なる情景を説明しているのではないか、と思われる。ルール抜きの、空相撲みたいな)

私は、CとDの組み合わせが好きだけど、正しいかどうかは、分からない。(1)と滅尽定体験が同じなのかどうかも、よく分からない。

論より体験。

修行あるのみ。