ゴータマ仏陀の教えとは戒・定・慧の三学だ、と言われます。
戒を守って、人間関係を良きものにし、安定した心で定(サマーディの事。広義は、ジャーナも含む)に入れるように訓練し、訓練によって、定に入れるようになった者には、仏陀の教えた智慧の真髄が分かるようになる、という訳です。
戒は、在家なら五戒をまもります。
うまくいかない日もありますが、コツコツ実践していれば、徐々に身について、やがては、戒を守ることが楽しくなってきます。
問題は定です。
定の定義は、心が澄み切って、自分の吐く息の中に含まれる光の要素が(心眼で)観えるようになる事、です。
これがなかなかできません。
そうすると、頑張っても、頑張っても、いつまでたっても定、乃至はジャーナが確立しない人々、すなわち瞑想難民、という言葉が生まれました。
そして昨今、瞑想難民を救うためには、もっと簡単に、定をショートカット、ジャーナなんか目指さなくても、智慧は生まれます・・・とする主張が見られるようになりました。
本当にそうでしょうか?
ジャーナがないのに、本当に、仏陀の教えた無常(名・色の刹那生滅)・苦(存在の円満性の欠如)・無我(縁生・縁滅)を観ることができる、のでしょうか?
無農薬の自然食材で料理を作るのが面倒だからといって、ファストフードばかり食べていたら、体を壊してしまいますよね?
ジャーナに入る訓練をしないまま、私は無常・苦・無我を観ている、というのは、いささか、無理があるのではないですか?
ファストフードでは、身体の健康を手に入れられない。
ファスト瞑想では、徹底した心の健康は得られない。 なぜなら、ファスト瞑想では、真理を如実に知見することはできないのですから。
追記:「今はまだジャーナに入れないけれど、心は徐々に清らかになってきている。」「いつかジャーナを確立して、無常・苦・無我を如実知見したい。」と目標を立てるのと、「ジャーナに入れないけれど、如実知見はできている。」というのでは、知見するべき真理への認識に関して、雲泥の差があると、私は思います。
尚、純観行者は、ジャーナに入らずに、四界の観察を、刹那定において、実践します。詳しくはパオ・セヤドー著「智慧の光」(菩提樹文庫)をご参考下さい。