Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-26

(訳者注:No1-25に記載の表~hatena画面では箇条書き~はN01-25にて、終了しました)

【心を収める方法】

あなたが心の中で、定の修習を終えたいと思う時、あなたは、己自身に、定の目標を手放すことを暗示しなければならない:

「手放す、手放す」と。

その後に、心をして静かに心輪(=胸の中央、胸のチャクラ)一帯に保持するようにし、内心で以下のように想う:

「私の心が日常の境界に戻りますように。」

そう想った後、ただ、心をして静かに心輪に保持せしめ、さきほどまで定を修習していた時の、一切の境界を憶念することを、止める。

心が相当に自在であると実感した後、全身の各部分の粗さを感受する。

このようにすれば、心は収めるべきところに収まりるが、これは静から動、微細から粗さへの第一歩である。

この第一歩は、みかけ上簡単そうに見えるが、しかし、非常に重要な実践であり、軽視してはならない。

ある種の人々は、座禅・瞑想によって定の修習をするようになって後、徐々に人格が変化して、(+感情が)鈍くなり、馬鹿のようにもみえ、心はここにあらず、の状態になり、日常生活において、物事を処理する心の巧みさと積極性を失う。

定力において、よい成績を持つように見える人ほど、この種の現象は、往々にしてますます明確になって行く。これは、座禅・瞑想の後、心を収めることを知らないが為に生じた現象である。

表面的には、座禅・瞑想を終了しているように見えても、心内ではいまだに、無自覚的に、先ほどまで実践していた定の修習における微妙な境界を縁に取っており、ゆえに、気持ちが(+こちら側に)戻っておらず、心が何か別の場所・事柄に囚われているようで、全心全力を上げて、<今・ここ>の境界に生きることができない。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-27つづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>